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デジタル版・新聞

インタビュー

パナホーム・ コンストラクションパナ・プラミング 代表取締役 ビクター 穂波経孝さん

ヘリコプターで墜落、 ヘルメットに弾が当たる…戦場での日々

上陸当日は静かで、訓練のようだった。でも皆緊張していたけれど、最初の1週間は遠くの方で爆撃音がするくらいで、ダナン やチュウライはまだ戦場という感じではなかった。上陸したら、海兵隊と海軍のシ 一ビーエ兵隊でキャンプやヘリポートをまず作る。砂地だからまず鉄板を敷いてね。

 

2週目に入ったら爆撃が始まった。 チ ュウライ、ダナン、フエ、ケーサン(38度線)までは海兵隊が行動範囲を作っていたから、ダナンまで行ってそこから今度は北に上がつていった。11月の中頃にはケサンDMZ(非武装地帯)にいましたね。ちょうど南北の境のところです。

 

でも北ベトナム軍(他ノ共産軍)が参戦するから、そこから先に行くなという命令を受けた。でも、それじ ゃボクシングのリングに片手を縛られて上がつているようなものでね、作戦を上手く遂行できないわけですよ。攻められても動けない。

 

だからチュウライからケサンを上下 する作戦行動の参加しかできなかった。 野戦に行って負傷兵をヘリコプターに乗せてから、部下、仲間を連れてヘリに乗り込み、飛び立ってすぐに後ろのプロペラを撃たれたんです。高度100メートル<らいのところから川にポ一ンと墜落しました。

 

落ちた時は気を失っていて、気がついたらダナンの病院にいました。幸い左足骨折ですみましたが。この時は全員無事でした。 ヘルメットに流れ弾が当たったこともあります(笑)。ハンマーでパ一ンと殴られたような感じで、田んぼの中に倒れました。

 

す ぐに衛生兵が飛んできた。真っ直ぐ当ってたら突き抜けていたけれど、悪運強く、角度が悪<当たればヘルメット、頭を突き抜けてたんですね。

 

マラリアにもなりました。熱が下がらなくてダナン野戦病院からフィリピンクラ一ク空軍病院からトリプラ一病院に3ヶ月いましたね。戦線に戻りたくはなかったけれど、仲間がいるし戻らないわけにもいかない。指揮官が代わると部下も信用しないし、慣れていないから色々難しい。

 

戦況はいっどうなるか分からないような状態だった。それで同じ部隊に戻りました。ローテーションはだいたい13ヶ月で、6ヶ月に一度は休暇が取れる。でも休むと気分が緩む。だから休みを取らないで一気に13ヶ月務めた方がいい気がするんだけど、やっぱり精神的に耐えられないんだよね、刑務所(無経験)にいるようなものだから。

 

いつ襲われるかも分からないし。 10月から2月の雨季は、ヒルが多くて大変だった。くっついたらナイフで削らないと取れない。煙草を吸っている人は火で焼けるからいいけどね。でも夜煙草を吸うとど こにいるか敵に分かっちゃうから気をつけなければいけない。

 

夏は日陰にいても暑くて汗がダラダラ流れてくる。20パウンドぐらい痩せましたよ。ウェスト36インチだったのが、帰ったときは32インチだった。ベトナムには結局3年いました。部下と友人は数多く負傷、亡くなりました。

 

ベトナム戦争のような戦争は、今思えば参加無意味な戦争でしたね。ベトナムの政府が感謝しているわけではないし。汚職が 一部で蔓延しているし。アメリカから物資がきても全然入らないけれど、外に行くとそれが町内で売っている。横流しされてるのかも待つより買った方が早い。 結局、68年1月に日本に転勤命令が出て、8月に除隊となりました。

 

 

夜中にハッと目が覚めるということが。神経が休まず以前はPTSDの状態もありました。

除隊してからも海兵隊予備役に4年勤めることになり、ハワイに戻ってから週末は予備室の勤務となりました。平日は時間があるので、メカニックのコントラクターに就職して、ヨットハーバータワー、他マンションの建設などに携わりました。

 

その後、会社を設立して、レストランなどをた<さん作りました。 「踊り子」(茶茶亭再建)(レストラン安芸)を作ったのが72-76年くらいだったかな? 80年にまた政府の方から極東担当勤務で戻るように依頼され、2000年8月まではアジアで過ごしました。

 

2000年の夏に母ががんになり、どうしても帰らなければならなかったので、引退してハワイに戻ってきました。僕は一人息子ですから。 そういうところはアメリカはわりと寛容ですね。

 

ベトナムの時も、ソウル ・サバイビング•サン(Sole Survivor Policy : 子供が従軍している場合、兄弟全員が戦死するのを防ぐために作られた法律)を母がサカエ高橋弁護士、ダン井上上院議員に申請していたので、本当はハワイに戻ることもできたんですが、あの時は部下、仲間もいたので自分だけ戻るわけには行かなかったんです よ。

 

最近はぐっすり眠れるようになりましたが、戦線から戻ってきてからしばらくは上手く眠れなかったです ね。ハッと鷲いて夜中に目が覚めるということが、以前はよくありました。

 

2003年にパナホーム・コンストラクションを設立しました。初めはパンフレットを作って新聞に広告を出してという感じで、 日本語と英語のコントラクターはそれ程多くなかったと思います。2006年に 「レストラン食堂」を手がけてからは、日本から問い合わせが増えましたね。

 

パークショアの2階の24時間営業のレストラン「ルルズ・ワイキキ」が次の大きい仕事だったかな? 以前はデニーズだったところです。カウンターの木はアラスカから取り寄せたんですよ。そういうデザイン的な部分にも相談に乗りながらやっています。

 

日 本のレストランは「がぜん」 「トントンラ一メン」(現在は京料理、南山ぎろぎろ)など色々作りました。現在、(桜ダイニング)(讃岐うどんツクック店)建設中。又、連邦政府関連工事、グアム、ハワイの仕事も手がける予定なので、忙しくなりそうです。

 

本当はビジネスが安定したら後継者に任せたいと思ってたのですが(笑)。でも、なかなか人材が見つからないんですよ。日本語と英語がOKの人となると、難しいのかもしれないですね。今後も英語が不便な日本人の方を、お助けできればと思っています。

 

コンストラクティングの会社、 「パナホーム/パナ・プラミング」。

日本料理のレストラン事業も、 数多く手がけている。

 

 


ビクター穂波 経孝(ほなみつねたか)

ハワイに向かう船上で生まれた日系3世。マッキンリー高校卒業後、カリフォルニアの大学に進む。大学卒業後、ベトナム戦争に徴集される。海兵隊 の将兵として出兵し、3年をペトナムで過こす。そ の後一時ハワイに戻るが、政府からの要望により 政府機関に勤めることとなり、約22年をアジアで 過こす。2000年にハワイに戻り、現在はパナ・ホ ーム・コンストラクションとパナ・プラミングの代表 取締役。趣味は柔道、射撃など。


 

 

 

(日刊サン 2011.06.24)

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