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デジタル版・新聞

インタビュー

株式会社青梅不動産 代表取締役 中込眞澄さん

東京都青梅市で不動産業を営む眞澄さんは、地域情報誌ぷらむニュースの編集長も兼任しているという女性実業家です。日刊サンのコラムでお馴染みの方も多いと思います。ハワイにはとても縁が深く、眞澄さんの祖父は、なんとハワイに初めて剣道道場を作った 方なのです。現在眞澄さんは、ハワイで熱心に伴右衛門さんの足跡 を調べています。明るく元気で行動派の眞澄さんに、色々お話しを 伺いました。 宮城県出身の眞澄さんにとって、数々の思い出の場所が今回の震災の被害を受けたということなので、被災地への想いも語って頂きました。

ライター:相原光

 

ハワイで日本人の心を再発見しました

 

病気療義のおかげで深まった、ハワイとの縁

私は宮城県出身です。父は警察官で転勤が多く、一ヶ所に留まったことがなく、子 供の頃は宮城県内を点々としていました。小学校は7回変わりました。友達の名前を覚える前に転校という感じでした。結婚してからは青梅市に移り、それからずっと青梅に住んでいます。

 

ハワイに来るようになったきっかけは、私が喘息患者だったからなんです。ハワイ の気候は喘息に良いと言われていますから。でもそれだけではなくて、もともとハワ イには特別な思い入れがありました。

 

祖父、古山伴右衛門は、大正5年(1916年)県の要請で、ハワイ移民に剣道を指導するためにハワイ島に渡り剣道道場を開設しました。私の伯父(祖父の長男)忠ーは大正10年(1921年)にハワイに渡り、後にハワイ剣道連盟の会長を務めていました。忠一は、戦後の貧しい日本の親戚たちにいつもハワイのお菓子の入った小包を送ってくれました。それがとても楽しみで、小さい頃からハワイに憧れていました。

 

祖父と伯父とのつながりのあるハワイ が、喘息に良いと聞き、来てみると本当に喘息に良かったんです。それが25年くらい前ですね。薬も使わずにこんなに良くなるならここに住みたいと思いました。コンドミニアムを買ってしばらくはよく来ていたんで す。 でもその後、夫が亡くなってしまいました。

 

子供を育てなければ、社員を食べさせなくてはと、とにかく必至で働いていたの で、しばらくはハワイに来る時間がありませ んでした。何とか子供が20歳になるまではと頑張っていたら、子供が20歳になったとたんに、私が病気になってしまったのです。 原因も治療法もはっきりしていない難病指定の病気です。

 

でもね、去年の6月に少し良くなったので 療養を兼ねてハワイに来てみたら、歩けなかったのに歩けるようになってしまったの (笑)。これにはびっくりしました。1年半くらいは足が痛くて歩けなかったんですよ。それ以来たびたびハワイに来ています。

 

 

祖父の軌跡をたどるうちに、戦前の日本人の姿を知ることになった

お祖父さんの半衛門さん

 

祖父半衛門と祖母は、子供たちを親戚に預けて八ワイに来ました。3歳だった私 の父には父親、半右衛門の記憶がほとんどなかったはずです。でも、父も小さい頃から剣道をし、本棚にはハワイの本がありました。長男、忠ーは小学校を卒業した12歳 の時日本からひとり、ハワイの両親のもとに来ました。

 

以前はビショップミュージアムに 「古山 半衛門が日本からハワイに来て、ハワイで 初めて剣道道場を開いた」と書かれた展示があったんです。それを見て、とても誇らしくうれしかったです。でも昨年ビショップミージアムに行くと、建物が新装されて、そ のコーナーがなくなっていました。

 

忠ーは 1999年に亡くなり、半右衛門へのつなが りがそこで消えてしまいました。ミ ジアムの方に日本文化センターに行くことを勧められたのですが、日本文化センターにも半右衛門の記録はありません でした。祖父はハワイに来て7年で亡くな っています。祖母は忠一をひとりハワイに残し、こちらで生まれた子供を連れて日本に帰ってしまいます。忠ーは13歳でした。

 

忠ーはとても、苦労をしたはずですが、床屋さんになって、結構成功したようです。剣道も続けていて、剣道で叙勲もされているんです。日本文化センターにある道場「謙志館」館長の吉永至圭雄先生から、古い剣道の本を借りました。伴右衛門や忠一のことが書いてありました。吉永先生は忠一をよく、知っていました。

 

半右衛門のことをもっと知りたいと思い、ハワイに来るたびに色々調べるようになりました。親戚から聞いた住所と以前、伯父に連れて行ってもらった記憶を頼りに、タクシーでお墓を探しに行ったら、たまたま運転手さんが日系人でした。出身を聞かれたので宮城県だと答えると、天台宗の お寺に行った方が良いと勧められました。

 

それで荒了寛先生のもとを尋ねることになりました。 そして、なんと荒先生が伯父の会話が入 っているテープを見つけてくれたんです。忠 ー は亡くなる数ヶ月前に荒先生を訪れていました。荒先生は長い間、日系二世の方の 話を録音して保存していらっしゃったそう ですが、忠ーの話も録音してあったのです。 忠ーは剣道に対する自分の思い、それま での生き方を語っていました。

 

自分は病気 でもう、長くない。日本には戻れないので、自分の出身地である宮城県の、県人会会長である荒先生に自分の人生の報告とお 礼をしたかった。せき込みながら、これで何も思い残すことはないと話し終えました。荒了寛先生のおかげで、伯父の声を聞くことができました。

 

テープには荒先生の声があって、付添ってきた忠ーの孫娘に「あなたは、おじいさん の話しを書き留めなさい。そして、おじいさ んは立派な人だったと、あなたの子供や孫に伝えなさい」と話していました。忠ーの孫は日本語が分かりません。私は自分が言われたような気がして、ますます熱心に調べるようになりました。

 

祖母のことも、初めはひどい母親だと思 っていました。でも、よく考えると、英語も話せない女性がハワイでいったいどうやって生きていけばいいのだろうということです。日本の親戚に預けたままの子供が3 人いる。それに、昔の日本人にしてみれば、12歳を過ぎたら家を出て丁稚奉公に行く人もたくさんいたわけです。

 

ハワイは気候も良いから頑張ればなんとかやっていけると考えても不思議はありません。祖母が忠一をおいて日本に帰ることは仕方がなかったのかもしれないと思うようになりました。

 

祖父や伯父のことを調べていると、当時の 日本国情、日本人の考え方、そういう背景が分からないと何も書けないことが分かってきました。とても深いテーマです。父は満州に渡り、敗戦後引き揚げています。はじめはプライベートな過去を調べていたのですが、大正、昭和時代の日本や日本人を調ベ ることになってしまいました。

 

 

 

誰もが安心していける不動産屋を作りたいと思って起業

不動産業を始めたのは昭和55年の1月からです。その頃の日本の不動産屋というと、あまりいい感じではなかったのです。自分が客として対応された時に「これはおかしい」と思いました。だって女性が一人では怖かったし、若いカップルも安心して入れないような、そんな感じだったんです。

 

誰もが安心して行ける不動産屋があってもいいはず。これは自分でやるしかないなと思い立ち、それで始めました。 10ヶ月程よその不動産屋に勤めてみましたが、ますますもってこれは自分でやるべきだと確信しました。

 

それまで、私の職務経験は銀行だけでした。当時の女性行員は電話の応対、接客の 仕方を徹底的に教え込まれました。それをそのまま再現していたので、馬鹿に丁寧な不動産屋になってしまいました(笑)。

 

女性 が不動産屋に勤めること自体が珍しい時代で、まして自分で経営するのは、ほとんど無かったと思います。 男性のお客様に「誰かいないのか!」と聞かれて「私がおります」と答えると「お前じ ゃだめだ、男はいないのか!駄目だ、こんな会社は」と言われてしまう。私が社長だというのにね(笑)。そういうことが何回もありました。

 

私は町の不動産屋なら、資本がなくても できると思っていました。女性が起業とい ったら、喫茶店とか洋服店とか、どれもお金がかかるでしょ?不動産屋ならば、机と電話と車だけがあれば何とかなるかと思った んです。でも一番大切なのは信用だったん ですよ。

 

私は宮城県出身なので、青梅には親戚も友達も誰もいませんでした。信用のない私が、例えば 「お隣の空き家に入居者を紹介 させて下さい。私に斡旋させてくれません か?」とお願いしても 「本家に相談してみる」 「銀行に相談してみる」という返事が返 ってくるんです。

 

私は 「青梅の人ってずいぶ ん用心深いんだな」と思っていました。その 返事を真に受けて、『ご本家は何とおっしゃ っていましたか?」とまた伺うのです。それを繰り返しているうちに、 「あんたには負けたよ」と、仕事をさせてもらいました。

 

日本人って物事をあまりはっきりと断らないでしょう? 「相談してみる」と言われた時点で、普通は断られたと思わなければいけないんですよ。でも私は若過ぎて、世間の 常識が分かっていなかったんですね(笑)。全部真に受けていました。

 

でも、一人が私に任せてくれたおかげで、「 あの人は少し変わっているけど、ちゃんとした人だから大丈夫だよ」ということになって、次のお客様が来るようになって、それがどんどんつながっていって、仕事を軌道に乗せることができました。

 

男性の不動産業者が、誰も私をライバルだと思わなかったのも良かったんでしょうね(笑)。 「あんなのにやれるわけがないよ」 と言われていましたから(笑)。でも、バブル 崩壊後、たくさん不動産業者が消えたなか、おかしなことに私が残っていました。

 

私はちよっとトボケているというか、鈍感なの かもしれませんが。でも感じないからこそ逆に、ヤクザが来ても大丈夫だったんです ょ。 例えば、ヤクザって、だいたい訳の分からないことを言ってくるものなんですよ、それもサングラスをかけて。

 

話ししていてもさっ ぱり意味が分からない。「すみません、今日 で3日もお越しいただいているのに、何のことだかちっとも分からないんですけど」と言うと 「これを出してもいいのか!」という答えが帰ってくる。

 

これというのは何か書類な んですけれども、それでどんな脅しの効果があるのか私にはよく分からないんですね。 「是非出して下さい。お話だけでは分かりませんが、紙に書いてあれば私にも分かると思いますので」とお願いすると、相手はあきれて 「こんな純粋な不動産屋は見たことがない」と感心されてしまいました。

 

普通は脅すとお金が出てくるらしいのです。 「ここに来ても、一円にもならねえ」と言ってましたから。「 俺はこんな不動産屋なんか簡単に吹き飛 ばすことができるんだ」と言われても、「え?なんだか“三匹のこぶた"の狼みたいですね」と答えてしまって、相手は目が点になっていました(笑)。

 

相手がいきり立っている時に「お茶かコー ヒーか、お召し上がりになりますか?」と尋ねると、相手は自分のペー スを壊されてしまうので「まったくやりにくいな」となる。

 

最後には「話の分からない理由の一つに、サングラスがあると思うんで す。そのサングラスを外して頂けますか」と お願いしたり。 そんなおかしな不動産屋ですが、それが良かったんでしょうね。

 

不動産業を始めてもう31 年目になります。創業者の仕事は次につなげることだと以前から思っていたの で、創業30年目にあたる昨年、社長を退き、会長になりました。

 

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