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デジタル版・新聞

インタビュー

株式会社満ー代表取締彼社長 田中 實さん

 

昭和28年、とんこつラーメン発祥の地・久留米で小さな餃子屋台からスタートした「満州屋」は、2代目で餃子と豚骨ラーメンの店となり、3代目・田中實社長によって日本を制するラーメン屋に成長を遂げました。昨年、白木屋で開催された全国有名ラーメン店激戦シリーズには満一グループから4ブランドが出店していたことも、ハワイの人々にとっては記憶に新しいはず。その満一グループが、シリーズ圧倒的ナンバーワンの人気店「威風堂々」を3月11日にハワイにオープンしました。ラーメン業界の風雲児として名を馳せる田中社長にお話を伺いました。

ライター:相原光

 

 

頑張るばい 日本!

 

潰れそうな店を日本一のラーメン屋に

満洲屋の始まりは、餃子の屋台です。祖 父と祖母が満洲で餃子の作り方を中国の方から教えて頂き、戦争が終り日本に帰ってきてから餃子の屋台を始めました。それが昭和28年です。

 

昭和40年代に父が跡を継ぎ、餃子の屋台から「満洲屋」という餃子とラ一メンのお店になりました。スープを釜で煮込む「とんこつしぼりラ一メン」が評判となり、満洲屋は超人気店となりました。

 

ところが、僕が中学3年の時に、突然父が亡くなり、それと同時にそれまでの何もかもを失ってしまいました。僕が高校を卒業する頃までは、母が一人でなんとかラ一メン屋を続けているという状態でした。

 

僕は、最初はラ一メン屋になろうとはそれ程真剣には考えていませんでしたが、飲食の修行は、やってみたいという気持ちがあり、家ではなく、外で経験を積もうと思いました。

 

そして高校を卒業後は福岡のラ一 メン店で働いたのですが、長くは続きませんでした。その後飲食店だけではなくパチンコ屋さんで働いてみたり、はっきりと目標が定まらずに色んなことをやっていました。

 

2年間くらいはいわゆるフリーターという生活でした。 20歳になった時に、母が 「店を辞めたい」と言い出しました。その時初めて自分をここまで育ててくれた父のラ一メン屋の灯が消えてしまうのは嫌だと強く思う自分の気持ちに気付き跡を継ぐ決心をしました。

 

その時実家のお店は、正直いつ潰れてもおかしくないような状況でした。満洲屋は約20坪 ·24席の小さなお店です。とにかく自分がやるからには、父の残してくれた満洲屋を日本一のお店にしたかった。ですから、ラ一メンを美味しくするためにありとあらゆることを試しました。

 

例えば、スープを炊く時に隠し味に牛乳を入れてみたり、卵の殻を入れてみたりというように色んな事を試して何日も何日も研究しました。最終的にブタのミンチと背脂を入れるところにたどり着いたのですが、その頃は原価計算ですとか、そういった部分が全然分かっていなかったんです。

 

そこからは、今度は美味しさを残しながらの数字との戦いでした。そうやって最初は一人で始めて、サービスや意識を高めていきました。 今は、ラ一メンは味だけではないと思うんですよ。

 

お客様へのサー ビスですとか、挨拶やホスピタリティですとか、「人として」まずはそこから始めないと駄目だと思うんです。それが出来てから、次に「味」だと思うんです。

 

そうしてコツコツと積み重ねていくうちに、だんだんと想いに共鳴してくれるスタ ッフが増えていきました。 跡を引き継いだ時は「満洲屋」でしたが、次の店舗を出す時に、父の店を日本一の店にするという気持ちで「満洲屋が一番」という名前に改名しました。

 

2店舗目は、洋服屋としてスタートしました。人が考えないような事をやってみよう。そう思い、その次にラ一メン屋と焼肉屋と携帯ショップを合体させたお店に変えてみたりもしました。その時の経験は、今でも僕の経営道に生きています。

 

父は亡くなるまで店に立ち続け、子供と遊ぶ時間もないような生活だったので、自分はそうではなく、経営者になりたいという気持ちがありました。また、やるなら最終的には事業家になりたいと思っていました。

 

自分が職人思考だったらラ一メンだけを作っていたと思いますし、店舗展開もしなかったでしょうね。

 

あるとき僕を突然のピンチが襲いました。若さにまかせての無理の連続がたたってか、体を壊し、入院してしまいました。しかし、そのピンチが僕の転機となりました。

 

入院中にラ一メンのフェスティバルがあり、病院を抜け出して僕のお店にいってみる と、嬉しいことにもうそれはそれは長蛇の列で、申し訳ない事に3時間くらい並んでくれたお客様もいました。

 

そうまでして食べに来てくれるお客様へ感謝してもしきれない気持ちでいっぱいで、僕は、一杯一杯に、精一杯の想いを込めて作りました。その時にそのお客様たちが並んだことには一言の文句も言わず 「美味しかったよ」と、温かくみなさん言ってくれたんです。

 

それを聞いて「やっぱり僕にはラ一メンしかない」と気づき、そこからラ一メンに本腰を入れて、洋服屋や焼肉屋を閉めてラ一メン屋として展開をしていくことにしました。

 

ですが実は、店舗展開する気持ちはあっても、僕が引き継いだ時は、今にも潰れそうなお店の状態でしたから、当然資金もなければ土地を持っているわけでもないので、銀行はお金を貸してくれなかったんですね。

 

どうしたら店舗を広げて行って大きなお店にすることができるだろうか?と考えて考えて出た答えが突撃販売でした(笑)。百貨店の祭事などでデモ(デモンストレーション販売)をやり始めたんです。カセットコンロを使って餃子を販売したり。

 

東京にあるナムコ・ナンジャタウンの「池袋餃子スタジアム」というところに入り、デモで結果を出していきました。そこから正式出店になり、その後、TVの餃子コンテストで日本一になることができました。

 

さらにその頃、「ラーメンテーマパーク」というものが日本に広がっている時期だったので、テーマパ一クに出店することで店舗を増やして行きました。ラ一メンテーマパ一クというのは、デモのラ一メン屋が10店<らい集まつて営業している施設です。出店は半年やl年など期間限定です。

 

本来、ラ一メン屋の経営をするなら、王道で言えば久留米に本店があるなら久留米に2店舗、3店舗と出店していくのが普通の展開だと思います。例えばハワイから始まるお店なら、ハワイで数店舗出店してからLAに行くとか、そういうのが普通のやり方だと思いますが、僕の場合はまったく逆の方向から行ったんですね。

 

いきなり久留米から東京に行って、そこから大阪に行って、名古屋に行ってという風に、ラ一メンのテーマパークができるところにどんどん進出して行きました。それでコツコツとお金を貯めて、逆輸入のような形で久留米に大きい店舗を出店することができました。

 

 

一杯のラーメンにありがとうの気持ちを込めて、 3月11日にハワイに出店

海外進出は以前から考えていまして、最初は香港かシンガポールに出店する予定でした。また関東でも出店ペースを早めようと思っていました。

 

実は、昨年の東日本大震災の日、3月11日にはJR久留米駅の店舗がオープンの予定でした。ところが、震災のためどうすることもできなくなってしまいました。

 

震災の直後はまだ海外進出は香港かシンガポールでと考えていました。でも震災の3日後にたまたまハワイに来てみたら「ハワイで出店するのも面白いかもしれない」 と直感的に思ったんです。

 

ハワイと香港とシンガポールと考えた時に、 「どこに住みたいか?」を考えたら、ナンバーワンはハワイでした。そう決めた瞬間からトントン拍子に出会いがあり、白木屋のデモが8月からに決まり、すべてが追い風でした。これはもう運命としか言いようがありません。

 

白木屋の「全国有名ラ一メン店激戦シリ ーズ」では、2ヶ月間くらいの間に4ブランドを出店させて頂きました。嬉しいことに想像以上に大好評で、僕たちの記録はまだ塗り替えられていません。

 

ラ一メンに関しては、最初はスープが少ないとか、麺が少ないとか、チャーシューが薄いとか色々問題はありました。

 

それもそのはず、あの時は何も分からない僕たちは、ハワイ用にアレンジせずに、久留米ラ一メンは久留米ラ一メンの定義のままで提供していたんです。

 

例えば、「ス ープは少なめ」というのが本来の久留米ラ一メンなんです。でも、ハワイにはハワイのラ—メンというものがあるんですね。

 

ですからグランドオープニングの際は、麺はハワイの人が馴染みやすいように太くして、スープの量も多くと調整したので、今は全くというほどクレームはありません。

 

固定観念にとらわれず、お客様のニ一ズに合わせて、愛される店作りをしなければならないと考えています。

 

今回の出店に合わせて、ラ一メンでは「スパイシ ーガーリックトンコツラ一メン」を作りました。餃子もガーリックシュリンプのタレを上からかけた、少し変わったものを提供しています。

 

ハワイの場合は最初に広まった餃子が大きくて皮が分厚いものだったんでしょうけど、日本の餃子は皮が薄いんです。それらも日本とハワイの特徴を上手く融合させて色々改良しています。

 

守らなければならない伝統と、変わり続けてもいい進化を融合させていかないとと思って日々努力していきます。満一グループでは、「満州屋が一番」「満一ゴールドレーベル」「博多ちょうてん」「札幌麺屋 誉志喜」「麺屋 威風堂々」など数種類の店を展開しています。

 

ハワイ進出にあたり、「麺屋 威風堂々」を選んだのは、日本は昨年、未曾有の大震災を経験しましたが、そこから顔を上げて「堂々と行く」という意味の言葉が僕たち日本人には、今、一番合っているんじゃないかなと思ったからです。

 

そうやって僕たちファミリーが海外で最初に使う名前は「威風堂々」だと決めました。ハワイのオープニングは、最初は2月25日の予定でしたが、あえて震災の日である3月11日を選びました。

 

「がんばれ日本!」 ではなくて 「がんばるバイ日本!」という立ち上がる気持ちを伝えたいと思ったからです。 「がんばれ日本!」で世界中から応援して頂きl年が過ぎ、日本はそれに応えなければ、 「結果」を見せなければならない時だと思ったんです。

 

その一番のアピールポイントは 「日本はがんばっているぞ!」というところだと思うんです。何もしていなければがんばっていることが伝わらない。

 

お店を立ち上げたということは、心が立ち上がつているということです。僕たちの感謝や、志や想いや、色んな感謝の気持ちを一 杯のラ一メンに込めてみんなに想いを返していきたい。

 

そういう気持ちで日本代表で復興の旗をあげる気持ちで3月11日を選んだんです。 僕たちは一杯のラ一メンに 「ありがとう」 という感謝の気持ちを込めて、ドンブリにも 「感謝」という文字を入れています。このドンブリは有田焼きの特注品なんです。そこまで一杯にこだわります。

 

 

ラ一メンを出す時も、食べ終わった時に「感謝」の文字がお客様から見える向きにドンブリを置きます。ラ一メンを作る時も 「感謝」の文字を見なが ら作るように指示しています。感謝の気持ちをラ一 メンに入れることが一番重要なんです。誰にも真似できない味を作るのは、この 「想い」です。

 

「想い」は満ーの最高のスパイスなんです。まずはハワイのすべての人たちに愛され るお店作り、そこからです。ハワイのお客様達から「この地区にお店を出して!」と言われるようにならないとと思っています。その地区の方々が応援してくれるようなお店にしていきたいですね。

 

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