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デジタル版・新聞

インタビュー

株式会社ウイン代表取締役 大澤雄一 さん

ウインライターに入社後 革新的な戦略で売上を伸ばす

もともとライターというのは、ロンソン、ジュポン、ダンヒル、コリブリ、カルチェなど、アメリカとヨーロッパのブランドが主流でした。

 

やがてライターのような雑貨は先進国で製造するとコストがかかりすぎるようになり、生産は日本などに移行していきました。ライターだけではなく、ラジオや車など様々な製品を日本で生産するようになりました。   

 

ライター部門では、日本の技術でオイルライターやフリントライター、電子ライター、ICライター、バッテリーライターなどを作って輸出し始めました。アメリカやヨーロッパのブランドは技術革新をしなかったのでどんどん下火になってゆき、日本が主流となりました。

 

ブランドの名前だけ残って、工場は閉鎖され、製造は日本が担当するという形です。うちは下請け会社になりたくなかったので、ウインという会社で開拓して、ウインUSA、ウインUK、ウイン香港という風に、1カ国1代理店主義で直接輸出していました。フランスの代理店はカルチェだったんですよ。  

 

ウインライターが優れていたのはデザイン・価格・性能・アフターサービスだと思います。代理店にはリペアマンを配属してどこの国でも修理ができるような体制を作りました。機械は壊れるので、それを直してくれる、保証してくれるアフターサービスはとても大事です。ウィンの場合は88カ国に輸出していたので、国際保証証明書を付けていました。  

 

僕はウインライターに常務取締役として入社し、世界88カ国の代理店の総括や商品開発に携わっていました。入社した時はまだ「大澤製作所」という社名でしたが、電話のたびに「お宅は何を作っている会社ですか」と聞かれるのが面倒なので、社名を「ウインライターコーポレーション」に変更しました。

 

そして、ウイン・インターナショナルミーティングという会議を1年に1回開催して、代理店の中でも特に多く商品を買ってくれているアメリカやドイツや香港などの代理店は招待にして、飛行機代などの費用を全部こちらで負担することにしました。代理店の方も招待となるとお土産代わりに注文を持ってきてくれるものですから、損にはなりません。会議で新しいことを色々盛り込んでいきました。  

 

コーポレイト・アイデンティティ(CI)を確立することも提案して、会社のユニフォームや配送車、包装紙、ライターの箱、名刺など、すべてを統一しました。ウインのロゴも僕が作り、会社の色はブラウンと金に統一しました。これを徹底したところ、ものすごい勢いで倍、倍と儲かりました。輸出貢献企業として10年間連続で通産大臣賞を受賞しています。  

 

僕が携わった中で一番のヒットといえば、ターボライターだと思います。80年代後半のバブルの頃はZIPPOライターがものすごく流行っていました。僕はZIPPOのコンセプトで中身をバーナーにしたライターを開発し、ランセルとライセンス契約して日本国内で販売しました。輸出はウインブランドとして販売しました。それが5年くらいの間に約200万個以上も売れました。

 

 

ライターの製造業をやめるきっかけとなったのは ウイン最大のヒット商品

実はライターの製造業を止めるきっかけとなったのは、通算200万個も売れたヒット商品だったんです。

 

ある日代理店からクレームの電話が入りました。「代理店はうちだけだと言っておきながら、なぜ競争相手にもライターを販売しているんだ」と言われ、そんなことはしていなかったので、そのライターを送ってもらいました。

 

それがウインライターのそっくりさんなんです。5ヶ国語で印刷された国際保証説明書も、メイドインジャパンという表示も箱もすべて一緒。パッと見ただけでは贋物とは分からない。でもライターを使ってみると、作りがギクシャクしてすぐに壊れそうでした。調べてみるとうちが2000円で輸出していたライターを、中国が200円で輸出していたんです。  

 

弁護士を雇って海賊版を作っている中国の会社を摘発していきましたが、当時日本のライター組合に加盟しているメーカーは50社に対して、中国には500社のライターメーカーがある。1社摘発しても次々に出てくるのでイタチごっこです。  

 

ウインは代理店に直接輸出していたので、中間業者がいないため、消費者の本当の声が聞こえてきます。他のメーカーは商社が入っているので、本当の声が届いていない。まだ日本製は売れると皆が思っていたし、事実その時点では売れていた。

 

でも僕はその時に中国の動きがよく分かっていたんです。これはヨーロッパやアメリカから日本にライターの製造が移行したのと同じことが起こっている。時代の大きな流れで、中国、韓国、台湾に製造の場が移り、もはや日本で雑貨を作る時代ではないといち早く察しました。  

 

それが1990年くらいです。まだバブルは弾けていなかったので、300人の従業員の就職先もまだたくさんありました。順当な会社のクローズの手順としては、まず給料を下げていく。退職金というのは給料から計算するので、「売上が下がった」などの理由をつけて給料を下げるのが普通です。

 

でもその頃残っていた従業員は親族や、父が仲人を務めたようなつながりの深い人たちばかりでしたから、そんなことは絶対にしたくなかった。今までウインライターのために頑張ってきてくれた人たちですから、満額以上の退職金を支払いました。

 

その時はそれができる体力がまだあった。すでに会社には不動産部門があり、ライター部門は多少赤字でも不動産部門は利益を出していましたから。でもこれをこのまま続けて行ったら、絶対に潰れてしまいます。代理店には直接事情を話しました。代理店こそ中国製品の台頭をよく知っていました。  

 

会社を止めるプロセスは3ヶ月くらいでした。その3ヶ月は眠れなかったです。僕はライターのことしか知らないし、ウインライターは父が作った会社です。母は「あなたが社長になったのだからあなたに任せます」と言ってくれました。ただ、父の13回忌までは静かにしていて欲しいと頼まれていたので、13回忌を済ませてからすべてを一気に済ませました。  

 

今となっては業界の人から「一番いいことをしたね。社長として一番立派だったのはライターを止める英断をしたことだ」と言われます。親父の時は立派だったけれど、二代目は駄目だったとは言われたくないですよね。親父もすごかったけど二代目もすごかったと言われたいですよ。あの時の決断は正しかったと思います。

 

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