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デジタル版・新聞

インタビュー

日本女子大学 文学部 島田法子教授

皆さんは日系移民がハワイで育んだ豊かな俳句や和歌の世界をこ存知でしょうか?ア メリカ研究を専門とする島田教授は、日系移民についても長年に渡り研究を続け、現在は『ハワ イ の日系人における短詩型文学』についての研究を進めています。詩歌だけでなく、戦争花嫁や、あ まり知られていないブラジルの写真花嫁についてなど、日系人についての興味深いお話しを伺いました。

ライター:相原光

 

 

ハワイの俳句の成立は、移民が定着していくプロセスでした

 

移民たちは過酷な労働の中でも「俳句」や「短歌」を通して集まり、日本のことを思いながら歌を詠んでいた

 

この度JICAの委託研究でハワイ•アメリ力本土・ブラジル・カナダも含めて、各地に おける日系人の 「短詩型文学」について資料の収集をすることになり、私はハワイの担当者として資料を集めたり論文を書いたりしているところです。そのための調査でハワイに来ました。

 

10日間の滞在で古い新聞を調査しなければならないので、ハワイ大学の図書館にこもっている状態です。論文の発表は3月を予定しています。 「短詩型文学」とは、俳句・短歌・川柳が含まれます。日本人は俳句を小学校で習うので、素晴らしいことに、俳句は割と身近なものと言えます。

 

昔の日本の農村では、雷が降る農閑期には青年たちが集まって俳句を詠んだりする活動がありました。ですから、ホノルルのような都会の人たちだけ でなく、農村から移民に来た人たちも、ハワ イでもそういう活動を継続してたのだと思います。

 

俳句に慣れ親しんでいる人が指導者役を務めていたようです。 例えば、俳句結社として記録に残っている棗古の組織 「エワ土曜会」の 「奴の奴」という俳号を持つ石栗半九郎氏は、ハワイの俳壇では有名な人物でした。石栗氏自身もプランテーションの労働者でしたが、自宅に日本人の労働者を集めて、奥様の手料理を食ぺながら、句を詠むという会を定期的に開いていました。

 

労働中も常にメモ帳を持ち歩き、思いついたことを書き留めるという風に、労働のあいまに詩作を続けていた団体があったのです。奴の奴氏を先生に「エワ土曜会」は1901年から活動を始めていたので、おそらくハワイで最も古い俳句結社だと思います。ものすこく面白い現象ではないでしょうか?

 

過酷な労働の中でも 「俳句」や 「短歌」を通して日本人が集まっで日本のことを思いながら歌を詠む。博打などで集まるのとは違って、とても良い伝統ですよね。やがて、俳句はホノルルやヒロで一番盛んになっていきます。

 

ホノルルでは「水無月会」 という俳句結社が生まれましたが`これはまもなく活動を停止したようです。一方、ヒ口で創設された「ヒロ蕉雨会」は百年を超える歴史を持っています。 短歌はやはり大都会が多いですね。 1910年代に結社がいくつかできましたが、長続きしませんでした。

 

ですが、1922年にホノルルで結成された「潮音詩社」は今でも活動しています。ヒロ の 「銀雨詩社」 は1923年に創設され、歌壇隆盛の時代を迎えます。そうした伝統が受け継がれてゆくのはすごいことだと思いますね。

 

 

● 草創期の日本人移民の句。ハワイで詠んだとは思えない句である。

・ 雑ネ山皆うれうれし霜の色  亦痴

・ 見送りや尾花わけ行く檜ネ笠  ー指

・ 小寺の鐘の響や桐 ー菓 湖舟

 

 

● エワ土曜会の「奴の奴」の作品

・ 夏稼ぎ手に豆出して戻りけり  奴の奴
.伍満ちて島去り惜しむ春の悔  奴の奴

 

 

日本で詠んでいたような俳句が、だんだんハワイ化していく

面白いのは、1900年代のハワイの日系人の俳句は、日本を詠っているのです。俳句には「季語」が必要なのですが、ハワイでは季語を見つけるのが難しいため日本のことを詠っているので、どこで詠んだのか分からない、無国籍な「日本の詩」になっています。

 

ところが、日本で詠んでいたような俳句・短歌が、だんだんハワイ化していきます。そのプロセスは、移民たちがハワイに同化し ていくプロセスに重なって感じます。ハワイ の風景を詠い、生活を詠い、日本を懐かし むという、ハワイに住んでいる日本人としての心を詠うようになっていく。

 

そして「ハワイ 歳時記」が作られるようになっていきます。俳句をハワイで詠うなら、ハワイにも季節がある。そして 「ハワイの俳句」となって成立 していきます。そのプロセスは移民が定着していくプロセスなのです。

 

それと同時に、日本の俳壇・歌壇とハワイが結びついていきます。やはり上達するには良い先生について、添削して欲しいものですから、そのために日本の俳句の会にハワイ から所属していきます。海外の日本人のことに関心を持っている先生が日本にもいらっしゃるので、彼らが添削するようになりました。

 

ハワイで作った詩を毎月日本に送ると、赤字で直して送り返してくれる。そういうつ ながりができて、日本の俳句の雑誌に 「ハワ イ支部」としてホノルルのグループの作品が毎月掲載されるようになりました。 よく見ると、そういう雑誌には満洲や台湾など、他の国からの作品も載っていて、日本 から世界に出て行った日本人たちに舞台を 提供していたわけです。

 

そういう雑誌の一つ 『ゆく春』は、いまでも続いています。いい先生に出会うことができて上達して、続いていく。ホノルルはどちらかと言うと 「自由律俳句」が栄え、荻原井泉水の『層雲』と結びつきました。ヒロは「定型俳句」の方が人気があり、 「ゆく春」につながっていきます。

 

「ゆく春」の支部はホノカアなどプランテーションごとにいくつか作られました。同じようなこ とが短歌についても言えて、短歌結社も日本の歌人の指導を受けるようになります。日本を知らない二世たちにも俳句という日本文化が伝達されました。

 

「ヒロ蕉雨会」の指導者のひとり·村上紅嵐氏の指導で生まれた曹洞宗ヒロ大正寺の膏年俳句研究会には二世が参加していました。「ヒロ蕉雨会」の会員は、まだ数人残っているんですが、残念ながら現在は定期的な活動は行われていないようです。

 

●(A)日本的な句と、(B)ハワイ的な句の例(1910年3月号の「春季雑吟」より)

(A)

・黒川に魚すくふ子や春一日 紫水

・渡守呼べばなき立つ梅の花 柏の家

・韮鍋の香ふ温泉宿や梅の花 竹涯

・合羽干す垣の破れ目や蕗の薹 玉兎

(B)

・子を持って移り住む庭や青マンゴ 一穂

・山守る土人の老ひとり花をへや 桑邨

・片照の虹美しや残る雨 桑邨

 

●「ゆく春」に掲載されたローカル色豊かな移民生活を描いた句

・一 斉に制れし甘薯や秋出水  村上紅嵐(1月号、92)

・煤けたる厨にほどなく目刺かな  未岡 9 鳥 (5月号、107)

・釈迦に似る布哇土人や仏生会  品川玉兎 (6月号 77)

・朧月や蔗の中なる移民塚  未岡 夕鳥 (7月号、68)

・茄子苗にばかりとぎ汁そそぎけり  佐藤芳山(7月号、73)

・椰子の影のびし夕日の植田かな  齋藤芙蓉(9月号、66)

・ 盆提燈異国の空に仰ぎけり  古屋静雄(11月号 76)

・ 児を抱いて盆提灯を見回りぬ  立原鳴夕 (11月号、101)

 

●ハワイらしい季語と例句

・島々の霞める山や珈琲咲く 増田玉穂(春、珈琲)

・九重葛咲く風に定礎式果つる 早川鷗々(春、ブーゲンビリア)

・潮鳴りや一村のキャベ散り尽す 青木虚舟(春、キャベの花)

・朝風に着物の人や鳳凰花 田島断(夏、鳳凰花)

・水辺りや時に穂蔗の影動く 元島明々(秋、キビの穂)

 

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