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インタビュー

小島南海雄(なみお)さん・民子さん・卓子(たかこ)さん

小島南海雄さんと卓子さん親子は、今年の参加でホノルルマラソンに親子 で連続22回の参加・見事完走となりました。南海雄さんはふとしたきっか けで1988年に初参加以来、毎年ホノルルマラソンを走っています。24回 の間には祖父・息子・娘との親子三代参加が4回あり、小島夫妻・息子・娘 の家族4人参加も2回あります。家族での延ぺ参加は55回にのぼります。 小島夫妻と卓子さんにホノルルマラソンにまつわるお話しを伺いました。

ライター :相原光

 

 

ホノルルマラソン親子で連続22回完走!

 

 

小島一家の家族構成とホノルル参加回数

父:南海雄さん:連続24回
母:民子さん:3回
長男:令大さん:3回
長女:卓子さん:
ホノルルマラソン出場資格を得た7歳から連続22回祖父:秀正さん:70歳で初参加、 82歳まで出湯

 

 

1988年初参加

南海雄

最初にホノルルマラソンに出場し たのは1988年です。その時は一人で走りました。当時ランニング雑誌を出版している出版社に勤めておりまして、私は物販の部署でランニング・ ゴルフ ・パドミントンを 担当していました。

 

‘‘マラソン会場でランニ ング・グッズを展示して販売することはできないだろうか?”というところから、ホノルル マラソンを見に行くことになったんです。ハワイに行くのに走らないのはもったいない。そう思って走りました。それが始まりです。

 

学生時代はパドミントンをやっていて、ク ラブ内では長距離は速い方でした。長い距離を走ることについてはそれ程不得意ではなかったです。今思い出すと、最初の年はとても天気が良かったです。今に比べると体力がありましたから“絶対に4時間を切るぞ”というつもりで走っていました。30キロまでは完全に4時間を切れるペースだったのですが、よく言われる“30キロの壁”でパッダ)と走れなくなってしまいました。

 

そこから歩いて、ちょうどダイヤモンドヘ ッドまで歩き、私が勤めていた雑誌のエイ ドステーションで少し話をして、“もうすぐだから、もう一度走ってみよう”と思い、走り 出したら、歩いている間に体が回復してい たようで、最後まで走ることができました。でも残念ながら4時間を切ることはできませんでした。4時間20分くらいでしたね。

 

 

1989年親子三代で出場

南海雄

その次の年 ・ 1989年は、息子と 妻の父の3人という親子三代で走ったので、7時間50分くらいでした。息子は89・90·91年と三回出場して最高7位(年齢別)に入りましたが、次の年は受験勉強で 出られず、それ以来ホノルルマラソンは走っていないです。一年からずっとリレーの選手に選ばれていて、短距離は特に速かったですね

 

民子

父は70歳からマラソンを始めまし た。主人は初めてのホノルルマラソンで、ポ ランティアの方たちの温かさや、クリスマスのイルミネーションの華やかな雰囲気に、とても感動して帰ってきました。それを聞い た父は自分もぜひ参加したいということで、それから練習を始めて、ちゃんと完走しました。それ以来走るようになり、82歳まで走っていました。ゴールドコーストのハーフでは年齢別(75~80歳)では優勝しました。

 

 

1990年・1991年 2年連続で家族4人全員参加・思わぬハプニングも

南海雄

3年目は娘が7歳で初参加しまし た。ところが、走っているときにホテルの金庫のフタを開けっ放しにしていたことを思い出したんです(笑)。途中でカミさんが追い付いてきたので娘を任せて私はスピード アップ、ゴール後そのままホテルに直行しました。 金庫は開いていて、部屋の掃除も終っていたのですが、幸い中身は無事でした。それからまたゴールに戻って娘を待ちました が、なかなか来なかったですね(笑)

 

民子

卓子は20キロまではとても良いペー スだったのですが、そこからエネルギー切れを起こしてしまいました。事情がよく分からなかったのですね。一歩も足が出なくな ってしまった。そこから大分休んで、ストレ ッチをしたり、少し食べたりしてだいぶ回復しました

 

卓子

沿道の人たちが色んな食べ物をくれ たのを覚えています(笑)。あまりにもフラフラしていたのか、“僕の車で乗せて行ってあげるよ"という人までいました。休みながら、最後はまた走って、8時間17分でした。 残りあと6キロの地点で父の会社の方が応援に来てくれていて“あと10キロちょっとだからがんばって"と声をかけられてドッと疲れが(笑)。

 

当時はまだ7歳ですから“マラソン”が何か良く分かっていなかったと思います。小学校では50メートルしか走ったことがなかったですし。私はもともと運動神経がそれ程いい方ではなかったんです。小学生は 50メートル走が速いとリレーの選手になれますよね。私は選手になりたくてもなれなかったんです。

 

幼いながらに、速さで勝てなければ、長い距離を走れば一目置かれるかも?と淡い期待を抱いていたら、初めてのマラソンは、半分は地獄でした(笑) それでもずっと続けているのは、やっぱり何かにとり付ゴールした時に、その年の締めくくりを迎えられるというか・・・(笑)

 

 

1994年卓子さん年齢別で優勝!

 

南海雄

卓子は小学5年生の時に年齢別(女子)で優勝したんです。その前の年は2位でした。ホノルルマラソン以外の大会にもいくつか出てはいたのですが、完走した のは4年生の時が初めてで、私自身もその時ー緒に走って初めてマラソンで一度も歩かず完走したんです

 

卓子

あの頃は瀬古さんが主宰していたSBのちびっこマラソンや、田沢湖の10キロレ一 ス、富士火祭りロードレ一スなど、ちょこちょこ色んな大会に出てましたね。ホノルルマラ ソンで優勝した年は、前年が2位だったので目標は優勝と決まっていたから、それに合わせた合宿をしたり。

 

合宿の前にはオーストラ リアのゴールドコーストでハーフを走って、2時間を切るという目標を達成しました。 優勝したときのタイムは4時間10分53秒。その年同じ年齢で優勝した男の子は、 3時間半を切るという、とてつもないタイムだったので、‘‘私も来年二連覇"と思ってい たのですが、以来タイムは下がる一方ですね。いつか”サブ4″と思いながら10年以上経ってしまいました(笑)

 

民子

小学生の時はどんどんタイムも良くなったし、色々と良いことを夢みていたとは思うんですけど。優勝した後は、優勝して満足してしまったというか(笑)、そういうところはありますね

 

卓子

父はマラソンをやっていて、母は音楽 をやっていたので(民子さんは元東京フィ ルハーモニ一のバイオリン奏者)、どちらかの道に進みたいとは思っていました。マラ ソンは、ホノルルマラソンに出てあのゴール の気持ちを味わいたいという気持ちはあっ たのですが、練習が嫌いで(笑)。

 

言われて練習するのが特に嫌だったんでしょうね。練習の期間、1月から11月までは“マラソン なんか嫌”と言っていて、12月の大会が終るとコロッと変わり‘‘私マラソン選手になってもいいかも”と毎年毎年言っていました。小学校の友達で、私の影響を受けてホノルルマラソンに参加した人はいないのですが、高学年になった時に校内で1キロマラ ソンというのが出来て”1キロを走るのってこんなに大変なんだ。卓子ちゃんすごいね” と言われたのを覚えています。その時は優勝しました(笑)

 

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