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デジタル版・新聞

インタビュー

壮絶な命の花を見つめて

  がんからの生還―僕の命を救ったホノルルマラソン

杉浦さんTOPWsamu

 

 

がんという病気に侵されていてもホノルルマラソンを、42.195kmの過酷な道を走っている人がいることをご存知だろうか?このハワイという地が壮絶な命の花を咲かせようと頑張る人たちに勇気を、希望を与えていることをあなたは知っていただろうか?ホノルルマラソンの裏で展開されている壮絶なドラマ。がんと闘う人々とこのハワイの地を結び付けているのは自身も余命半年という宣告から生還した「がんサバイバー」である杉浦貴之さん。彼がこれまで歩んできた人生に、出会った人との話に、耳を傾けよう。きっとあなたの人生に必要な言葉が見つかるはずだ。

 

 

 

 

 

余命半年、二年後の生存率0%

「余命半年、日本でも20症例しかない特殊な腎臓のがん。1999年の発症当時、これまで助かった人はいなくて全ての人が2年以内に亡くなっている」―これが28歳の時に僕が医者から受けた宣告です。でも16年たった今、僕はこうして生きています。それも結婚をして、二人の子供に恵まれて。僕はただ、幸運だったのだろうか―何か僕に特殊な力があったのだろうか―いや、そうじゃない。それは僕が生きることを諦めなかったから。僕が幸運だったとしたらいくつかの幸運な出会いがあったから。その出会いが僕にがんを乗り越える力をくれたのだと思います。そのことを伝えたくて今、僕は活動しているのです。

 

 

 

「余命宣告なんて絶対に信じない。私は息子の命を信じます」

まず第一番目の幸運は、僕が僕の両親の息子だったということです。余命は、両親にだけ告げられていましたが、それでも自分ががんと宣告されることで、僕は絶望の淵に突き落とされました。すごい恐怖感です。泣きたかったし、叫びたかった。しばらくは、そんなどん底をさまよっていた。そんな僕を救ってくれたのは、両親でした。「余命宣告なんて絶対に信じない。私は息子の命を信じます」母は主治医にそう啖呵をきったそうです。両親は僕以上にショックだったと思う。でも、一緒になって落ち込むのではなく、僕が生きることを信じてくれたのです。そういう想いが届いた時に、「あぁ、もう一回生きよう」、「もっと自分を信じてみよう」と、自分自身にスイッチが入りました。そこからです。自分の気持ちが前向きになってきたのは。心を前向きにする、希望の光に心を向けることが、僕はがんを克服するのに、とても重要な要素だと思っています。

 

 

 

がん患者の周りにはネガティブな言葉が溢れている

がんの患者さんというのは、多くのネガティブな言葉にさらされています。医師の余命宣告もその一つ。周囲の方にそんなつもりはなくても、心配する言葉が心をネガティブにさせることもある。「無理しないで」「体のことを考えたら、そんなことやめた方がいいんじゃない?」。でも、心を明るい方向に向けないと体も快方に向かわないと思います。精神的なストレスで体を壊す人、病気になる人がいるように、逆もまた然りなのではないでしょうか。現在、僕はがんや重い病気と闘向き合う人、生還した人たちを紹介する「メッセンジャー」という雑誌を発行し、講演会などで全国を飛び回っていますが、そこで多くの方々と出会います。中には医師や看護師など医療関係の方々も。そこでお会いした女医さんからこんな話を聞きました。ある男性患者さんが、温泉旅行に行きたいと言ってきたそうです。その女医さんは、「元気になっておいで。治しておいでよ」と伝えたのですが、主治医の先生が「その旅行は最後の旅行にしてください」と言ったそうです。その時、彼女には、患者さんの心が目の前で潰れていくように見えたといいます。翌日会った時には、患者さんの顔つきが全く変わっていて、「先生はぼくを騙したのかい?単なる励ましだったのかい?」と言われたそうです。その患者さんは女医さんの言葉よりも、主治医の言葉を信じてしまったのです。そのことが原因とは言い切れませんが、彼は2日後に亡くなってしまったのだそうです。

たとえば「にせ薬」を使った実験など多くの医学的実験が証明するように、精神的な問題が病気を癒す力を人に与えることもあるし、絶望が人の生命力を弱めてしまうこともある。だから、僕は言いたいのです。ただ一人の人間の思い込み(余命宣告など)に負けちゃダメだと。そして、周りのサポートをする方にも、僕の両親のように、その人の命を本気で信じてあげてほしいと。だけど最終的には、自分の命を自分自身がどこまで強く信じることができるかが、がんを克服する力に繋がっていると思います。

 

 

 

 

辛い闘病生活の中で蘇ったホノルルマラソンの記憶

二つ目の幸運は、僕が大学生の時に、ホノルルマラソンに出会っていたということです。ハワイに行くのがメインなのか、ホノルルマラソンに参加するのがメインなのか半々のような気持ちで、華やかなお祭りのようなホノルルマラソンに仲間とワイワイ参加した。当時は、野球で鍛えていたし、若くて体力もあったので、3時間50分というタイムで完走しました。22歳のあの時、初めて感じた、何かにチャレンジして乗り越えるという体験。体力的にもう限界かもしれないと何度も感じながら、ゴールにたどりついた時のあの感動。28歳でがん宣告を受け、病院で、抗がん剤投与などの辛い治療に耐えながら、病気と向き合っていた時、ふとホノルルマラソンでの体験が甦ってきたのです。病気が治ったらもう一度ホノルルマラソンを走ってみようか―そう思ったらなんだかワクワクしてきました。それまで、僕の中では、病気を治すことが一番の目標だった。でも治すことが目標だと苦しいんですよね。ところが、元気になってホノルルで、風を切って走っている自分を想像したら、自分の中にエネルギーが湧いてきたんです。スタートの号砲だとか、ハワイの強烈な日差し、沿道で応援してくれる人々とのハイタッチ、流れ出る汗だとか、全てをリアルに思い出しては、病院のベッドの中で何度も何度もその光景を夢に描きました。

 

 

 

言葉の力、イメージの力―ベッドの上で毎晩号泣

僕は自分の中で地図を書き換えた。今までの地図は、いばらの道をどうやって進んでいくかという地図。新しい地図には、未来に待っている素晴らしい世界への地図です。もともと僕は、妄想するのが大好きな子供だった。だから、ホノルルマラソンを走って、完走することを本気で妄想した。そうしたら、その妄想がどんどん膨らんで、素敵な女性と出会い、ホノルルマラソンのゴールには妻となる人が腕を広げて待っていてくれる。翌日にはハワイの教会で挙式して感動のスピーチをする。実際、結婚式を想定して、ベッドでスピーチを書き上げました。「○年前のあの日々から、この日が来ることを信じて歩いてきました。生きることを諦めなくて本当によかったです。妻と幸せな人生を築いていきます。僕をここまで支えてくれた両親、家族、親戚、たくさんの仲間たち、本当にありがとうございました!」このスピーチを毎晩読んでは、わんわん号泣していたので、巡回のナースさんや同室の患者さんからは、おかしな人だと思われていたかもしれません(笑)。

 

 

 

人間の脳は、現在・過去・未来の区別がつかない

後から知ったのですが、人間の脳というのは、現在起きていることと、未来をイメージしていること、過去を回想していることの区別がつかないらしいのです。だから、僕が病室で思い描いていた強烈な臨場感を持った夢が脳に刺激を与え、脳から指令を受けた体の全細胞に良いエネルギーを送ってくれたのだと思っています。不思議なことに、そういう夢を描くようになってから、夜ぐっすり眠れるようになりました。それまでは、病気のこととか考えると不安で眠れなかったんです。そのことも、僕に病気と闘う気力や体力を与えてくれたのでしょうね。ホノルルマラソンの体験が僕をここまで歩かせてくれた。ホノルルマラソンで42.195kmを完走した時の体験がなかったら、ぼくは果たして今ここにいるかわかりません。そして、発病から9年後、まさに夢見たそのままの出来事が現実となったのです。素敵な女性と出会い、ホノルルマラソンのゴールで妻となるその人の腕に飛び込み、翌日には教会で式を挙げました。ただ一つ想定外だったのは、二人の子供にも恵まれたことです。最高の幸せを夢に描いたら、それ以上の幸せが現実の世界で僕を待っていたのです。

僕が今、がんと闘っている人々に伝えているのは、病気を治すことの向こう側に、素晴らしいゴールを描いてくださいということ。思い描いた素晴らしい世界が、あなたにものすごい力を与えてくれるということです。

 

 

杉浦さんファミリーw

 

 

 

 

 

逃げるための言葉―『いつかは』は永遠に叶わない

三番目の幸運は、回復の途中で恩師と呼べる人に出会えたことです。ホノルルマラソンの夢を描きながら、手術から何年たってもその夢が実現することはありませんでした。腎臓摘出の手術をして以来、体がだるいという感覚が消えたことがなく、少し動いては肩で息をし、疲れて体を横たえる。再発の可能性、腸閉塞の発症による5度の入院など体調が不安定な日々を送っていたので、自分にはまだ無理だと思っていたのです。ところが、2005年に「メッセンジャー」を発行したことにより、恩師と呼べるその女性に出会うことができました。雑誌の中で僕は「ホノルルマラソン」への想いを綴っていましたから、読者であり、乳がんとスキルス性胃がんという二つのがんを克服した先輩でもあるその女性から「杉浦さん、あなたの夢はホノルルマラソンをもう一度走ることだったわよね?これ、いつ行くつもりなの?」と聞かれたんです。不意打ちを食らった僕は「いや、書いてはあるけど、『いつかは』っていうつもりでいますよ」って言ったら怒られた。「あなた、そんな風に、いつかは、いつかは、って言っているから永遠にやってこないのよ。永遠に夢は叶わない。今も叶っていないでしょ?」。凄くショックを受けました。でも図星でした。そうだな。いつかはって言っているから永遠に叶わないんだな。自分は病人だって言い訳をしてずっと逃げていたんだ。自分で自分を病人扱いしていたんだってその女性に教えられたんです。「今年走るって決めちゃいなさい。元気になるって決めちゃいなさい。」いつもできない理由を見つけては、自分に言い訳をしていた僕を夢の場所へと連れて行ってくれたのが彼女です。

 

 

 

「思いついたことは実現するから思いつくのよ」―彼女の言葉を胸に今も生きている

マラソンを走ると決めたのがその年の9月でしたから、本番まで3か月。とりあえず1キロ走ってみたら、心臓が痛くなり、足が震える。やっぱり無理かもしれない。腎臓が一つしかない僕は、フルマラソンなど走ったら残った腎臓に負担がかかりすぎて、最悪の場合人工透析になるかもしれない。そんな不安が頭をよぎりました。でも諦めたくなかった。次の日もう一度走ってみたら、また倒れたけど、100m伸びて、1.1キロ走ることができた。そして毎日100m伸ばしていったら1ヶ月で3キロ、2か月で7キロ、本番直前は10キロまで走ることができるようになったんです。ところが、そうしているうちに、僕を叱ってくれた彼女が、体調を崩してしまった。胃がんをもっていた彼女は、食べられなくなって、見る見る痩せていく。病室にお見舞いに行って、正直これは無理だなと思いました。彼女にそう言うと、「何言ってるのよ。冗談じゃないわよ。行くに決まっているでしょう?」。驚きました。そんな体でどうやって行くんですかと聞いたら「いや、これから私は元気になる。元気になるイメージしか持っていない」。本当に凄い精神力です。これこそ、二つのがんを乗り越えてきた彼女が今ここにいる理由なのだと思いました。実際それから食べられるようになって、体重が増えて、二人ともホノルルマラソンに参加しました。そして、僕は5時間半で、彼女は6時間半でゴールしたのです。完走した時に、人間の持っている可能性っていうのは、人間が思っている程小さくないということを自分の体で実感しました。

彼女が言った「思いついたことは実現するから思いつくのよ」という言葉。思い浮かんだことは実現する道のりがあるから思い浮かぶのだと。「それをダメにしてしまうのも、叶えるのも自分。もし思い浮かんだのならGoだよ」。この言葉を、僕は今も胸に刻んで生きています。

 

 

 

 

壮絶な命の花を見つめてきた雑誌「メッセンジャー」

僕はがんを克服した人に会いに行ったり、勇気をもらいながら、がんを克服してきたのです。そうした出会いから力をいっぱいもらったので、それをみなさんにも紹介していきたいと思い、雑誌『メッセンジャー』を創刊しました。始めた時は、自分はまだ元気じゃなかったので、自分のことは伝えられない。でも人のことは伝えられる。言葉にして、雑誌にして元気になった人のことを伝えていこう。そして雑誌をつくることで、さらに様々な人と出会い、みんなの生きる力をもらいながら自分も元気になっていきました。本当に多くの出会い、多くの命の輝きをこの「メッセンジャー」という雑誌は見つめてきたのです。そして、ホノルルマラソンを走った先にある景色をがんと闘う人たちに見せてあげたい。その想いが形となったが、2010年に立ち上げた「がんサバイバー ホノルルマラソンツアー」です。今年で5回目となるこのツアーもサポーターも含めて250人が走り、様々な出会いを生み出してくれました。

 

2010年がんサバイバーホノルルマラソンw

 

「死ぬ支度をしていたけど、今日、もう一回生きたいと思った」

中でも特に印象的だったのは、乳がんでの闘病中に膵臓がんが発覚したという65歳の女性との出会いです。乳がんとの長い闘病生活。抗がん剤の投与など辛い治療に耐え、やっとこれからと思っていた矢先に膵臓がんで余命3ヶ月と宣告されてしまった。その方の娘さんは遠いメキシコに住んでいたのですがお母さんから告白を伝えられて衝撃を受けていたところに目についたのが『28歳で2年後生存確率0%宣告男性。イメージ療法で42歳現在元気』と僕のことを報じたYahoo ニュース。藁をもつかむ思いでそのニュースを読み、すぐに「メッセンジャー」を日本にいる母に届けてほしいとメールを送ってくれたんです。届け先の住所を見たら兵庫県の加古川市。偶然にも僕はその日ライブ活動のために加古川市にいたのです。ライブがあるからお母さんに知らせてほしいと夢中でメールを返信しました。メキシコとの時差を考えると、間に合わないかもと不安だったのですが、ライブ終了後に「娘から…メキシコにいる娘から聞きました」と女性が現れたんです。「私は膵臓がんが発覚して、死ぬ支度をしていたけど、今日、もう一回生きたいと思った」と泣きながら言ってくれました。「杉浦さんの話を聞いて涙が止まらなくて。私、治っていいんですね。自分で自分の可能性を閉ざしていたと思う。もう治らないって決めていた。でも、もう一回生きたい。私、治るって決めました」。その時はとても痩せていたのに、2か月後、神戸で行われた僕のライブに来てくれた時には別人のように元気になっていて驚きました。聞けばあれから毎日1万歩歩いていて、医者がビックリするぐらい血液の数値もよくなっている。そしてホノルルマラソンにも参加したいと言って、そこで娘さんと再会し、一緒に10kmコースを完走しました。実は、10kmでは物足りなくてジグザクに歩いたと告白してくれました。

 

 

 

がんと闘っている人たちに力をくれるホノルルマラソン

これまで僕たちのチームでホノルルマラソンに参加した全てのがんサバイバーの方が完走しています。2013年のツアーでは、チームメッセンジャーのメンバーが、足を痛めてリタイアしようとしていた一般参加のがんサバイバーのお二人と出会い、テーピングやマッサージなどのサポートをしながら、なんと19時間56分でゴールするというドラマもありました。その際、ハワイの方々からの声援、差し入れ、助言も多く、協会の人からも「間もなく日没となるが、慌てず、焦らず自分たちのペースで行きなさい。フォローしていくから」と優しい言葉をいただきました。僕が「がんサバイバーのマラソンツアー」にホノルルマラソンを選ぶのは、このアロハスピリッツのため。どんなに遅くなっても最終ランナーを待っていてくれるホノルルマラソンは、優しいマラソンなんです。2008 年に結婚の夢を叶えた時に、ともに参加した方の言葉も印象的です。「自分があきらめたら、次に続こうとする人も夢をあきらめてしまう。だから頑張るんだ。」ハワイの地にエネルギーをもらい、ハワイの人々のあたたかさに触れ、命の輝きを実感したのです。僕の想いはこうです。「命はそんなにやわじゃない」そして、ホノルルマラソンを「走れるほど元気になったわけではなくて、走ったから元気になったんだ」。

 

2014年がんサバイバーホノルルマラソンw

 

 

 

 

 

僕は今幸せです。多くの方に助けてもらい、支えてもらいながら、自分の力を信じてここまでくることができました。夢を描き、どんな逆境も楽しみながら、未来の幸せを引き寄せたのです。どうか希望を捨てないでください。僕が特別なのではなく、すべての方に無限の可能性があると信じています。そして、人間の持っている力の凄さをどうか信じてください。

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