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デジタル版・新聞

インタビュー

ライター・通訳・翻訳家 下吉陽子さん

今回は日刊サンのコラム『People of Aloha」でお馴染み、ライターの下吉陽子さんが登場です。東京でのキャリアウーマン生活をあっさり捨ててハワイにやってきた下吉さんは、 『ハワイの素晴らしさ」を多くの人に伝えるために再び起業し、ライター・通訳・翻訳家として活動しています。また『ハワイシニアライフ協会」の理事として、運営にも携わ っているのでこ存知の方も多いのではないでしょうか。聡明でいっでも前向きに頑張っている下吉さんにお話しを伺いました。

ライター:相原光

 

 

これからの世の中に必要なのは「アロハ・スピリット」

 

「起業」という言菓がない時代に女社長として独立したキャリアウーマン時代

私は東京・阿佐ヶ谷の出身の「ニッパチ組み(昭和28年生まれ)」です。大学に入った頃は弁護士を目指していたのですが没 を んでしまったんですよね(笑)。クラスは女性1人だったんです。どこに行ってもとても楽しくて、すっかり学生生活を楽しみました。友達もたくさんできて、よく男の子の恋愛 相談なんかを受けていましたね。

 

大学を卒業して、医療機器の貿易会社に就職しました。私が卒業したのは1976年で、オイルショックの後の大不況だったんです。大卒の女子の就職は、ほとんどなかった。まわりの男の子はどんどん就職が決ま っていくのに、私が同じ会社に電話しても人事の人は会ってもくれない。

 

「大卒の女性は採用しておりません」で終わり。女子の半分ぐらいは留年したり進学したりでしたが、私はお金がなかったのでとにかくどこでもいいから就職しようと思い、見つけたのがその貿易会社でした。 面白そうだなと思って入社したら、本当に面白かった。

 

そこで 10年くらい働いたかな? 入社当時の社員は100人。私が辞めた頃は300人以上になっていました。社長がとても面白い方で、色んなことをやらせて頂きました。新製品の導入、医療許可を厚生省から取る仕事、カタログやマニュアルを作ったり、展示会のアレンジをしたり。小さな会社だったので、あっという間に出世できた(笑)。

 

会社の広報誌の仕事も手がけるようになりました。 30代に入ってから、そのまま仕事を続けてもこれ以上のポジションにはなれないかなと思いました。男性は突然べつの仕事に抜擢されるということがありますが、女性にはそういう機会はありそうにない。そんな時、大学の同級生でフリーライターの友人と 「会社をやってみようか」という話で盛り上がり、広告代理店を始めることになりました。

 

広報誌の仕事をそのまま引き継ぐことができたので、とてもラッキーなスター卜でした。 でも友人とは「どちらが社長になるか」という部分で折り合いがつかず、結局別の会社でオフイスをシェアするという形でまとまりました。ふたりとも社長になりたかったんです(笑)。

 

あの頃はとにかくもっと頑張りたいという気持ちがあった。 私たちの時代というのは、女性であるために不利な部分が今よりもありました。「女性差別はありません」と言われて入った会社でしたが、最初はお茶くみやファイリングくらいしかさせてもらえなかった。男性はすぐに営業に連れて行ってもらえる。

 

社長の息子さんが私を気に入ってくださったおかげで、引き立てて頂き、わりと早く昇進することができましたが、やっぱり常に戦っていました。頑張らないと生き残れない時代でした。それだったら自分の力で起業しようと思ったわけですが、そのころは「起業」という言葉さえなかったんです。

 

自分でビジネスをはじめてみると、どこに行っても 「どちらの下吉様ですか。当社とお取引はありましたでしょうか。新規のお取引はいたしません」と断られてしまう。勤めていた貿易会社は小さい会社だと思っていましたが、小さいながらも後る盾がきちんとしていたんですね。

 

まあ働いていくうちに雇用均等法ができて、状況にも変化が出てきましたが。やっぱりぶつかって、ぶつかっての繰り返しでした。 今は女性がビジネスをするということに理解がありますよね。昔は女性ひとりでお客様のところに行くと馬鹿にされたりしました。

 

勤めていた頃でも、私が企画室長として部下を連れて厚生省に行っても、厚生省の方は私の部下の男性社員を見て話したり(笑)。そういう時代だったんですよ。 自分の会社を立ち上げてから、システムとそれほど戦わずにできのは良かったですね。やったらやった分だけ自分のものですし。自営っていうのはいいなと思いました。

 

広告代理店では、前に勤めていた会社のニュースレターを作ったり、医療関係のカタログを作ったり、学会の企画運営までをコーディネートしたり。大きい仕事としては、日本集中医療学会のプロジェクトを2年がかりでコーディネートしました。 私の作っていた広報誌は医療関係だったので、健康に関するインタビューを作家や俳優・スポ一ツ選手などの著名人に行っていました。

 

けっこう誰でも応じてくれるんですよ。作家でしたら遠藤周作さんとか、村松友視さん•佐藤愛子さん・常盤新平さん、歌手の上月晃さん・ ダークダックスのゾウさん(遠山一)、パレリーナの森下洋子さん、春日野親方、やなせたかしさん、日野原 先生などなど、何十人もインタビュ ーしました。

 

テーマは「健康のために何をしていますか」。共通した意見というのはありませんでしたが、皆さんそれぞれ自分なりの健康法がありました。 やっぱり有名になる人は魅力がある。す こいものを持っているなと思いましたね。何か強いものがあるんですよ、意志が強か ったり、根気強かったり、何かひとつは必ずある。たまたまラッキーだったわけではないということを感じましたね。インタビュー はいつも、すこく楽しかったです。

 

 

ハワイで家庭を持って人生が豊かになった

広告代理店は5年くらいやりました。ある時日本の香護士さんがアメリカの病院を尋ねる視察ツアーがあって、ハワイとカルフォルニアをまわったのですが、それに取材のために同行したんです。その時にハワイで知り合った人と結婚しました。

 

ハワイに来たのが1992年6月。もう19年になります。ハワイに行っても食べていけないんじゃないかと親には言われましたけど、「私が稼ぐからいいの」とタンカを切って日本を出てきました(笑)。

 

確かに、経済的には日本の方がずっと良かったけれど、人生を考えたらハワイの生活の方がいいですよね。ハワイで家庭ができて、お金はなくても、自分の人生がものすこく豊かになったなと思います。 日本にいた時にこだわっていたキャリアなどを全部捨てて来たので、ある意味ふっ切れた気がします。ハワイには友達もッテもないし、まったくゼロだった。

 

でもそのおかげで、キャリアのためにバリバリ働くよりも、自分の人生のために幸せに過ごしたいと思えるようになりました。ハワイはお金がなくても遊べるし、どこに行ってもきれいだし、素晴らしいところだと思います。 ハワイで出会った人たちは本当に素晴らしい人たちばかりでした。

 

ハワイに来てすぐに子供ができて、友達も家族もまわりに誰もいなかったのですが、夫の職場の同僚がベビーシャワ一をしてくれたり。何も期待していないのに、親切にしてもらう機会がものすこく多かったんです。そういうことが重なるうちにハワイがだんだん好きになりました。

 

最初はハワイが嫌だったんです。ずっと東京にいた街っ子ですから、遊び方が分からない。言葉も英語ですし。都会的に楽しめることがハワイは少ないですよね。例えばコンサートとか、展覧会とか、都会ほどはない。あまりアウトドア派ではなかったし、食べ物もあまり美味しくなかった(笑)。子供が2歳になるまでは家にいたので、自分の世界が広がらなかったんですよね。

 

子供の世話をして毎日が終っていて。 最初はエヴァビーチの海の前に住んでいて、景色はすばらしくて、子供は海で遊べるところでしたが、少し怖かった。泥棒に何回入られたかわからない(笑)。でもね、持って行かれるものが、洗剤やゴムぞうり。一番大きいものが自転車だった。

 

2年くらいでハワ ィカイに引っ越しましたが、治安は全然違いますね。日本人が多いので驚きました。 ハワイで一番素晴らしいのはアロハスピリットだと思うんです。これからの世の中で必要になるのはこの「アロハスピリット」だと思います。アロハスピリットについてもっと掘り下げてみたいなと思っています。

 

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