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デジタル版・新聞

インタビュー

セントラルパシフィックバンク名誉会長 齋藤譲一さん

 

 

10年前にセントラルパシフィックバンク (CPB) を引退した齋藤譲一名誉会長は、12期連続二桁増収増益という輝かしい記録を作り、 CPB黄金期を築き上げた人物です。引退後は今迄のキャリアとは全く異なる道『スポーツ吹矢』のハワイ総支部部長を務め、ホノルル日本人商工会議所やハワイ日米協会などの活動に積極的に参加し 、地域社会と深い絆を保っています。ハワイを支えてきた日本人、齋藤氏にお話を伺いました。

ライター:相原光

 

日本人にとってハワイが居心地がいいのは、日系人の努力と貢献そして信頼のおかげです

日系人のための銀行として設立されたセントラルパシフィックバンク

私は住友銀行から派遣されて1988年2月にハワイに来ました。当時、日本の住友銀行が セントラルパシフィックバンク(CPB)の株式の約13.7%を所有する筆頭株主でした。現在は、住友銀行との資本関係は全くありません。

 

戦前、住友銀行は官約移民としてハワイに渡ってこられた多くの日本人の郷里送金を取扱うことを主目的にホノルル支店があ っイたのですには日本の銀行がなくなってしまいましが、戦後閉鎖されてしまい、ハワイには日本の銀行が無くなってしまいました。

 

日本は戦争中の敵国ですから、戦後日系人のご苦労は想像を絶するものがありました。銀行の取引開設すら思うままにならず、特に住宅ロ一ンやワーキングファンドなどをハワイの銀行から借りられなくなっていたのです。もちろん借りられる人もいましたが、それは資産のある方に限られ、一般の人々には厳しい条件があり、なかなかお金を借りることができませんでした。

 

「どうしても日系の銀行を作らなければならない」と現在もアメリカ政界の重鎮として活躍されている、ダニエル・ イノウエ上院議員、今は故人となられた100大隊の高橋サカエ氏、弁護士の坂本エルトン氏、建築家の原アーネスト氏など二世の方々が尽力し、日系人のために銀行を作りました。それがセントラルパシフィックバンク(CPB) です。1954年に設立されました。

 

設立の際に、州の銀行局から「銀行経験のある人材が必要」というアドバイスを受け、たまたまその役員の中に住友銀行を存じ上げていた方がいらっしゃいまして、住 ュー ヨ ーク駐在森田得男常務にコンタクトを取りました。住友銀行は「金は出さないけれども人材は出しましょう」ということで、人材を派遣して銀行が始まったんです。

 

お金は出さないとはいえ、新しい銀行なので少しずつサポートしているうちに、住友銀行が所有する株式が13.7%までになり、外国銀行法の規制もあって、そこで一応資金の援助は終わりました。 その後も人材は住友銀行からトップが絶えず派遣されてきました。初代の頭取は石井一夫氏、二代目は佐藤慶治氏、三代目として私が赴任しました。

 

1989年から頭取を務め、1995年に会長(CEO) となり、 2002年の6月に引退しました。 私が赴任した1988年ころは、バブルが真っ盛りの時代です。「ジャパン・マネー」が 怒濤のように流れ込み、ホテル、オフィスビル、ゴルフ場そして 一般住宅家屋やマンションまで買い漁ったのです。方々で観光リゾート開発やゴルフコース建設が着手されました。

 

1986年から1990年の5年間で日本人によるハワイへの投資額は110億ドル。1991年末でハワイの全ホテルの65%、ゴルフ場の半分以上が日本人所有と報じられました。異常としか言いようのないこの状況に、日本からの投資はハワイにとって好ましいものか、寧ろ有害ではないのか、環境破壊問題も含めて世誦は沸き返りました。

 

この事態を契機にハワイに住む日本人や日系企業、諸団体は地域社会との関わりについて真剣に配慮する気運が持ち上がったとも言えますね。 バブル期には当然のことながら借り入れ需要は旺盛でした。

 

ただし銀行の融資限度枠、即ち一企業に貸し出せる金額=一社制限のためにCPB程度の銀行サイズでは大型貸金案件に応えることが出来ないケースが多かった。指をくわえて融資案件を見送 る状況でした。しかしバブルが弾けて多くの大手金融機関が不良債権をかかえこみ苦労したところをみた時、 「あの時あれをやらずに良かった」と小規模だったが故に救われた事例も沢山ありました。

 

私が勤めの景気が好調ではありませんでしたが、連ていた頃は、必ずしもアメリカの景気が好調ではありませんでしたが、連続二桁の増収増益の記録で、アメリカの中小銀行の中ではベストのところまで登りつめることができました。2001年の年間純益は前年比47パーセント増をマークし、 「USバンカーズ」誌の2001年度全米銀行業績順位のミッドサイズ銀行部門(総資産18億ドルから50億ドル)で見事第4位にランクインしました。

 

CPBの更なる発展、21世紀に勝ち進む銀行を目指す為には銀行がベストの状態にある時にこそ、次の人にバトンタッチ出来たらと常日頃考えていたので、今がその時と引退を決意しました。永年支援頂いた住友銀行の株式も全額返却し、文字通り、地元ハワイの銀行として新たな門出と更なる飛躍を願っての決断でした。

 

2004年、新しい頭取が積極的に規模を拡大する方針で、シティバンクを買収合併しました。シティバンク(CB)はセントラルパシフィ ックバンクに次ぐハワイ州第4位の商業銀行で、同じように日系の企業を対象にして作られた銀行でした。 CBの設立は1959年、森田ジェームス弁護士等、日系二世の方々が中心となり設立された銀行で、三井銀行(後日、太陽神戸銀行と合併、さくら銀行と改名)と資本提携をしていました。

 

その後日本の銀行の統合があり、さくら銀行は住友銀行と合併し、2001年に三井住友銀行となりました。セントラルパシフィ ックバンクは住友銀行で、シティバンクはさくら銀行が提携していましたから、いずれ合併するだろうという噂はありました。 シテイバンク買収後のCPBの業務展開は、私の時代と違ってカリフォルニア州やワシントン州とハワイ州以外に戦線を拡大、不動産貸金を増加したものの、その殆どが焦げついてしまった。

 

不良債権処理のために2008年末から大幅赤字決算、40ドル台の株価は暴落、ジャンク、当然のことながら無配に転落。CPB苦難の時代に突入。 FDIC(連邦預金保険公社)の監督下に入り、いつ消滅してもおかしくない状態でし た。

 

引退して経営にタッチしていない私にも、CPBの現状、先行き、銀行取引をどうすべきかの問い合わせが株主や顧客から再三寄せられました。15年問心血を注いで築き上げたCPBのこと、精神的ショックとでも言うべきなのでしょうか、 「シングル」 (帯状疱疹)が顔面左眼の上に発症。2ヶ月以上外出できなかったこともありました。従業員の苦労も本当に大変だったと思います。

 

ありがたいことは、沢山の日系人の株主、お客様がCPBを見捨てず、残って下さ ったことです。これは感謝、感謝ですね。 2011年から経営の指揮をとったジョン・ディ一ンCEOのCPB再建の努力と成果には本当に感謝と敬意を表したいですね。

 

CPBも昨年からどうにか黒字になりました。これからが楽しみです。優れたジョー ン ・ デイーンCEOの下、多くの勤勉な従業員と本当にロイヤルな株主顧客をもっ CPBです。必ずやまた信頼され、お役に立つ銀行に戻ってくれるでしょう。頑張って欲しいですね。

 

 

住友銀行からアメリカ赴任となり、ハワイ勤務に

大学を卒業して住友銀行に入行したのが1959年です。最初に配属されたのは東京駅の前にある八重洲通り支店でした。3年ほどで加州住友銀行に転勤になりました 。オリンピックの前年1963年にサクラメンたト、1965年にサンフランシスコに転勤し、カルフォルニアで8年間勤務しました。

 

大阪万博が終った年、1970年12月に日本に戻りました。ですから、日本が高度経済成長で大発展を遂げたときに、残念ながら日本にいなかったのでまさに今様浦島太郎のようなものでしたね。

 

銀行は転勤が多いです。業務上お客様との癒着を防ぐという意味もあります。転勤の辞令が出たら、2週間以内に新しい勤務地に赴任しなければなりません。不正を防止するための知恵なのでしょうね。最近は海外の場合1ヶ月ノーテイスもあるようですが、私が勤めていた頃は海外でも2週間でした。

 

当時は外貨事情が非常に厳しかったので、一度転勤になったら「自分のお金であろうとも帰国はまかりならん」というものでした。今は自費でしたら夏休みに日本に帰 ったり、父親が亡くなったら帰国するということは自由にできますが、当時は親の死に目にも会えないという時代でした。

 

親が亡くなり、一人息子なのでどうしても帰国したい場合は転勤辞令です。本人だけ先に帰国して家族が後始末をして早急に帰国する、なんとも非人間的なシステムだなと思いましたが、それが当たり前の時代でしたね。

 

学生時代から海外には行きたいと思ていました。入行3年位の若い人で結婚している人が海外勤務になるということはなかったので、私は最初のテストケ一スのようなものでしたね(笑)。結婚したときに同期から 「お前はもう海外勤務はないぞ」と言われたくらいです。60年代というのは日本の国際化がまだ進んでいない時代でしたから、一度海外赴任になったらずっと海外畑になることが多かったようです。

 

前にもお話した通り、1970年に帰国し、丸の内支店、虎ノ門支店、外国部に勤務し、 1976年に千葉支店長に就任。もう海外勤務はないかなと思っていたのですが、1978年に住友銀行シアトル支店長として赴任す ることになりました。シアトルはボーイング社の街で、アメリカは不景気の真っ只中。大変なときにアメリカに戻ってきました。

 

2度目にアメリカに来たときに一番変わ ったなと思ったのは、黒人の髪の美しさ。 60年代にはストレートヘアというのはあまり見かけなかったのに、70年代に戻ってきた時は真っ直ぐな髪の黒人が増えていて驚きました。それからキッコーマン醤油の普及の度合いにも驚きました。60年代は中華料理では醤油を使うところがありましたが、虫を殺したときに出てくる汁のように見えるのか 「バグジュース」と呼ばれていました。

 

70年代に戻ってきたときには、どこのスーパ一マーケットでも棚いっばいにキッコーマンの醤油が売られていてあの普及度にはびっくりしました。やはり美味しいのでしょうね、香りもいいし。

 

それから、テレビのコマーシャルといえば、「タバコ」でしたね。今は禁煙でタバコのCMがなくなってしまいましたが、当時はタバコというのは「西部劇」を捩ったり、豪華客船のデッキを舞台にしたり格好良かったです。 3年後にシアトルからまた古巣のカリフォルニアに転勤になり、サンフランシスコ本店総務部長に就任しました。

 

2年後に今度はロサンゼルスに配属され、南加州駐在副頭取となり、またサンフランシスコに戻り、サンフランシスコ本店首席副頭取となりました。もうそろそろ日本に帰るかなと思っていたのですが、1988年にハワイCPB勤務とな りハハワイに不時着しました(笑)。

 

ハワイは日本に近いということもありますし、日本人には居心地のよい場所ですよね。これは日系人の方々の力があるからなんでしょうね。差別などに関しては、カリフォルニアは全然違います。例えば、アイスクリームを買う時、「バニラ」は発音が難しくて食べれなかった。「ストロベリー」か 「チ ョコレート」しか買えなかったですよ(笑)。

 

ハワイはそんなことはありませんからね。英語の発音が多少悪くても理解しようとしてくれる。日系人に対する信頼と尊敬の表れではないでしょうか。やはりハワイはそうした大先輩たちのおかげなんでしょうね、アメリカでこんなに住みやすいところはないと思います。ハワイでは家に入るときに靴を脱ぐという風習が伝わっていますが、アメリ力本土では靴を脱ぐ習慣はあまりないと思いますよ。日本食も豊富にありますしね。

 

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