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デジタル版・新聞

インタビュー

サッカー選手(コロラド・ラピッズ) 木村光佑さん

 

木村光佑選手はアメリカのプロサッカーリーグ(MLS)で日本人として初めての選手です。2007年のプロ入り以来活躍を続け、 2010年には全米優勝を果たしました。先日ハワイで開催されたサッカーの親善試合ハワイアン・アイランズ・インビテーショナルのために初めてハワイを訪れました。常に向上心と信念を持って駆け抜けてきた木村選手のサッカー人生について、お話しを伺いました。

ライター:相原光

 

 

サッカーもひとつの武士道

 

 

怪我のために高校卒業後プロという道が断たれてしまい、アメリカ行きを決意

サッカーを始めたのは小学校1年生の頃です。兄も父もサッカーが好きでしたし、 1993年にJリーグが発足したということもあり、テレビでサッカーの試合をよく一緒に見たりしていました。Jリーグの選手を見て成長したので、大きな影響を受けていると言えますね。

 

小学生のときは付属のクラブチームに入り、中学の時はサッカ一部で活動し、高校入学の際に川崎フロンターレユースに所属することになりました。

 

まだ発足して間もないチームでキャプテンにして頂き、一生懸命頑張って全国大会に初めて出場することができました。

 

しかし高校2年の時に大きな怪我をしてしまい、完治するのに9ヶ月もかかり、高校3年で復帰したのですが、高校からプロに行くという道は断たれてしまいました。どうしてもプロになりたかったので、この時は本当に悩みました。

 

当時は日本で大学に行ってプロになるという道は主流ではありませんでした。日本の大学の場合、スポ一ツを選ぶとスポ一ツがとにかく中心になってしまいます。強いチームなら強いチームほど、サッカーをやるか勉強をするかどちらかを選ばねばならず、両立するのは難しいということが分かってきました。

 

せっかく4年間大学に行くのならきちんと勉強もして、もしプロが駄目だった場合も別の道に移行できるようにという気持ちがありました。

 

悩んでいる時に、インターナショナルスクールに通っていた親しい友人が、アメリカの大学に進学して奨学金をもらってサッカーをやりながら勉強をしたらどうかと勧め てくれました。

 

アメリカでは大学を卒業してからプロになるのが主流ですが、ヨ ーロッ パの場合は18歳くらいまでに芽が出ないとプロになるのは難しい。この時点で選択肢はすごく限られていました。アメリカでの可能性を聞き、当時は英語もまったく喋れませんでしたが、アメリカに行こうと決意しました。

 

怪我をしていた時のアスレチックトレーナーがアメリカで免許を取得していた方で、アメリカはスポーツ医学がとても進んでいるということも間いていました。

 

それで、どうせアメリカに行くのなら、スポーツ医学の勉強をしながらサッカーをやろうと決め たのですが、それは高校3年の3学期が始まる直前でした。

 

日本の留学エージェンシーに相談することも考えたのですが、僕の場合はとても特殊なケ一スです。サッカーの強いチームに入りたいし、スポーツ医学も勉強したい。なかなか条件に合うところが見つからないわけです。

 

父に相談したところ 「本当にそうしたいなら自分で調べなさい」と言われ、エー ジェンシーも頼らず自分でなんとかすることにしました。 まず、アメリカ大使館の資料館に毎日通って、全米の大学の情報を調べました。

 

英語が喋れないので1年目はサッカーがどんなに上手くても奨学金が出ないということが分かり、州立の大学に絞ってスポーツ医学とサッカーが両立できる学校を探しました。

 

なんとか条件の合う大学を見つけ出し、願書などの前にとりあえず大学のサッカーチームの監督に片言の英語でEメールを送りました。自分のハイライトビデオも作り、サッカーの履歴と高校の成 績と一緒に約20校に送りました。

 

でもやっぱり英語が喋れないので相手にされないんですよね。最終的に8校くらいから返事が来たのですが、その中で西イリノイ大学の監督がとても良い人で 「ビデオ を見てサッカーが上手いのは認めるけれど、まず英語を喋れなければ話にならない。2003年の9月までに英語を覚えて大学に入らないとサッカ一部には入れない。西イリノイ大学のESLに入れるように手続きをしてあげるから、ビザだけ申請してすぐこっちに来い」という返事をくれました。

 

その時はすでに2003年の1月でした。 日本から出たこともないしパスポートも持っていなかったので、ビザがどんなものかも分からないくらいでしたが、とにかく書類をもらってアメリカ大使館に行きました。

 

ところが、911の影響でビザの取得がものすごく難しくなっていて、最低でも3ヶ月かかると言われてしまいました。4月にESLに入っても、もう遅いわけです。とにかくビザを出してくださいと頭を下げましたが、 「それはどうすることもできないから、書類を速達で送って待ってください」という答えです。

 

そこから毎日、アメリカ大使館に電話とファックスを2回ずつして、どうにか今すぐビザを出して下さいとお願いしました。6日くらいたって、アメリカ大使館から「もうファックスも電話もしないでください。明日速達でビザが届きますから」というファックスがきました。

 

ようやくビザが発行してもらえて、ビザを手にした翌日には飛行機に乗っていました。その時は西イリノ イ大学がどこにあるのかも知らなかったです。

 

 

大学1年でキャプテンに抜擢、2・3・4年と連続地域優勝を達成

西イリノイ大学のサッカーチームはデイ ビジョン1なのですが、ディビジョン1の約200校のうち全米最下位の25位以内に入 っていました(笑)。これではプロに行けない。どうにかしてこのチームを強くしようと監督に相談しました。

 

監督は「英語は拙くてもお前のやる気があれば皆がついてくる」と言ってくれて、1年でキャプテンに抜擢されました。そこからは徹底的に基礎から教えて、選手をリクルートするときも監督と一緒に僕が選んでいました。

 

最初の年は全然駄目だったのですが、2年目に地域で初めて優勝して全国大会に 初出場することができました。3年目、4年目も地域優勝して全国大会に出場し、最下位25位から全米38位まで行くことができました。

 

そのおかげでコロラド・ラピッズのスカウトの目に留まり、ドラフトにかけて頂いてプロになることができました。僕が居たチームは中学・ユース・大学とあまり強くはなかったので、一般的に言われているプロになる道とはかけ離れていたんです。

 

でも、努力して、チームメイトとも上手くやってきたので、その自信がどこかにあるんでしょうね。アメリカのプロ サッカーリーグ(MLS)で 初めての日本人選手と聞いてとても驚きましたが、今までの経験を通して、成功できる自信を持っていました。

 

夢は追い求めるものという人もいますが、僕はそうは思いません。夢というのは、人生への目標をくれるもので、追いかけるものではないと思うんです。目標を立てることで、自分で夢を手繰り寄せるものだと考えています。

 

「追う」と言うと、遠過ぎて実 現しないような気がしてしまう。夢は自分に目的や目標をくれるもので、一生懸命努力することで心の底から少しずつ手繰り寄せてくるものだと思うようになりました。「自分が本当に心の底から思うなら、誰に何を言われてもやり続けろ」と父がよく言っていました。

 

僕のサッカーヘの想いは何があっても誰にも変えることはできない。唯一変えることができるのは自分だけ。自分の強い意志を持っていれば絶対に崩れないということを教わり、それはどこに行っても身体に染みて思います。本当に感謝しています。

 

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