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デジタル版・新聞

インタビュー

【インタビュー 輝く人】ハワイアンミュージシャン  ライアン・カマカケハウ・フェルナンデスさん

アーカンソー州で産まれたアフリカ系アメリカ人の男の子。それは、ハワイアンファミリーが待ち望んだ子だった。彼は、母とその家族の愛情を一心に受け、ハワイアンとして育てられた。そして、高校生の時に開花した音楽の才能。自分が家族から教えてもらってきた、本当の「アロハ」の意味を、自分の音楽を通して広めようと決意。今後の活躍が楽しみな輝く人。

インタビュアー:実紀 Cabatbat

 

夢は、ホワイトハウスで オバマ大統領に演奏披露

ハワイアンファミリー「念願」の子 第一言語はハワイ語

僕は、アーカンソー州で産まれたアフリカ系アメリカ人です。生後6週間でマウイ島の家族に養子縁組され、カフルイの現マウイ・ハイスクールがある辺り、ヴァレーアイルで育ちました。僕の曾祖母がその辺りに住んでいたんです。 名前のカマカケハウ は、「念願」という意味で、ハワイ大学でハワイアン・スタディーズを勉強していた母の従姉妹が名付けてくれました。

 

 ハワイアンの人たちが信じてきた教えの中に、子供を養子にし、家族や自分が身をおくサークルに子供を連れてきた場合、いかなる時も、自分たちの本当の子供のように育てることというのがあります。僕の母は、まさにそのように育ててくれました。幼少の頃に両親が離婚をしたので、一緒に暮らした期間はとても短かったのですが、父もとても大切に育ててくれました。その父も5年前に亡くなりましたが、父との思い出はとても素晴らしいものばかりで、つねに歓迎してくれ、大事にされてきたと感じています。そのことに気づいたのは大人になってからですが。

 

 父には3人の子供がいて、その子供が僕の兄弟のようなものではありますが、母にとっては、僕が唯一の子供で、人生のほとんどを母一人子一人で育ちました。その母は、ハワイアン・チャイニーズで、さらにインディアンも混ざっていて、僕は「チャプスイ・ミックス」って呼んでいます(笑)でも、その母の家系のおかげで、ハワイアンの血筋でなくとも、ハワイアン•イマージョン・スクールに行くことができたんです。

 

 母の兄妹がその学校で先生をしており、その子供達も同じ学校に通っていました。母は、僕にも同じような経験をして欲しいと思って、その学校にいれました。  僕はまだ5、6歳で幼かったので、有無を言わさず入れさせられたんですよ(笑)でも、その学校での経験があるからこそ、今自分がやっていること、それはつまり、自分の音楽をシェアすることですが、どういう意味をもってやっているか理解しています。幼稚園から高校まで、ハワイアン・イマージョン・スクールに通ったので、実は僕の第一言語はハワイ語なんです。母は、そこまでハワイ語が堪能ではないので、所々ハワイ語を混ぜて話す程度ですが、先程触れたように、イマージョン・スクールで先生をやっている叔父や叔母、またそこに通っていた従兄弟がいたので、常に、ハワイ語で話すような環境にいました。

 

 

神がくれた奇跡 体の伸びで、才能開花?!

音楽を始めるきかっけは、僕は神がくれた奇跡と思っています。

 

 ハワイアンミュージックを始めたのは高校生の時でした。皆さんもそうだと思うのですが、高校生になって何事も気恥ずかしさを感じる年頃にはいり、 だんだんと自分のことがわかってきた時に、ちょっとずつ自分を開花していく。そういう段階を経ている時でした。 当時はジャワイアンミュージックを友達とやっていたんです。もちろんハワイアンミュージックは聞いたことはありましたが、あまり馴染みがありませんでした。それがある日、たまたま中庭にいて、体の伸びをしたら、ひょんなことにファルセットとビブラートの効いた声がでたんです。それを聞いていた友達が、「ワーオ!今の声は一体どこから出たんだい?」って言ったんです。その後それが伝説となりました(笑)

 

 まず、曲を書くことから始め、それから歌の練習をしました。とにかくひたすら練習をしました。光栄なことに様々なクムフラと出会い、「この曲やってみなさい」とたくさんの曲を教えてもらったんです。ファルセットに関しては、誰からも習わず、全て耳で聞いて独学で習得しました。練習を重ねていけばいくほど、クムフラと一緒になる機会が増え、次々と曲を教えてもらうことができたのです。そして、徐々に、歌や表現の仕方を上達することができました。  そして、2003年に、リチャード・ホオピイファルセットコンテストで優勝したのが、ミュージシャンへの道の始まりでした。あれが運命の分かれ道だったとも言えます。

 

 

ハワイアン文化に生きる毎日 自分のクリアナ(責任)とは

曲作りをする時は、自然のある場所、例えば、ボタニカルガーデンなどに行ったりします。自分の感性をもっと深いレベルにもっていきたい時は、一人きりになります。自分と音楽だけの世界にするんです。曲作りのリソースはたくさんありますが、実はそのリソースが与えてくれるものには限りがある。その限られた中で、自分が取り込めるものは取り込むようにしています。また、日頃は自分にとって、また相手にとってもためになる人といるようにしています。そうやってアウトドアに出て行くこともあれば、家の中で曲を作ることもあります。

 

 日本でも、ハワイ文化やハワイアンミュージックを愛し、音楽活動をしている人がたくさんいますよね。厳密に言えば、僕もハワイアンではありませんが、ハワイミュージックをシェアしようと活動しています。僕の経験を通して、皆さんが色々なことを学んでもらえたらって望んでいます。  ハワイアンは一生懸命自分たちの文化を守ろうとしています。それを理解した上でも、これは僕にとっては、あくまでも「選択」だったんです。僕は、自分の知っていることを続けていくことを選択したのです。しかし、同時に、別の自分が、これは「選択ではない」とも感じています。 僕は、この文化を習えること自体がどれだけ恵まれていることなのか気づきました。更に言うと、僕の場合は、習っただけでなく、まさに「文化に生きている」んです。僕の家族は今でもアロハの精神で僕に接してくれ、本当の「オハナ」の概念など、普段の生活全てがハワイアン文化そのものなんです。そうした家族の姿が、僕にハワイアン文化を理解させてくれているので、それをシェアしていくべきだと思っています。

 

 もちろんそうした環境で生きていくのが大変な時もありますが、僕はちょうど中間にいると感じています。黒人の知り合いや友達もいて、彼らは彼らのスタイルで生きてきているわけですが、その彼らと僕の唯一の類似点は「肌の色」だけなんです。彼らにも「君は黒人じゃないね」って言われます。それは僕が違う環境で育ったからですよね。でも、アフリカ系アメリカ人と共感する同じ「価値」が絶対あるんです。日本にだって、ハワイアン文化と共感する「価値」つまり、「アロハスピリット」がありますよね。それはすぐそこにあるんですよ!アロハはどこにでもあるんです。もっと多くの人がそのことを広めていく必要があると思っていますし、またそれが、僕のクリアナ(責任)でもあると思っています。 

 

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