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デジタル版・新聞

インタビュー

【インタビュー 輝く人】ハワイアンミュージシャン / ウクレレ講師 岡田 央さん

2005年に初出場したマウイ島での「ファルセットコンテスト」でまさかの優勝を果たした岡田さん。「作者の気持ちを伝えることが音楽」と、歌詞を理解するために作者に会いに出かけ、その曲が作られた土地に足を運ぶ。演奏をすることでたくさんの人に喜んでもらえるのが何よりも嬉しいという。200回以上の行き来をしているハワイに教えてもらったすべてを音楽を通して伝えるために、世界を飛び回っている。

 

岡田 央( おかだ ひろし)
1967年8月11日京都生まれ。小学生でモトクロス(BMX)をはじめ、レースに出場。スポンサーが付くほどの成績を収めるも骨折により高校3年生でレーサーを辞める。京都産業大学経営学部卒業後、企画運営会社を設立。京都にハワイアンカフェを開店し、ウクレレをはじめる。2005年に初めて出場したマウイ島での「ファルセットコンテスト」で日本人初のハワイ語賞と優勝の同時受賞。2006年ハワイでCDをリリース。2007 年ハワイのグラミー賞とも言われる『Na Hoku Hanohano Awards』で、日本人初のファイナリストに。現在日本全国16 か所でウクレレと歌を指導。ハワイ、アメリカ本土、アジア各国 ではウクレレのワークショップなどを行い、音楽を通してハワイの魅力を伝える活動をしている。

www.hiroshiokada.com

 

二度助かった命に感謝してハワイが与えてくれたものを世界中の人に伝えたい

レーサー時代の栄光と怪我

僕は3人兄弟の末っ子として京都で育ちました。ある日、兄から自転車をもらい、嬉しくて楽しくてすぐに自転車小僧になりました。そのうち、BMX(バイシクル・モトクロス)という競技用の 自転車に乗るようになって、小学校5年生から高校を卒業するまでレースに出ていたんですよ。

はじめは予選にも通らなくて、いつも最下位。でも、とにかく自転車が大好きだったので、毎日乗っているうちに、中学生の頃には優勝できるようになっ て、高校時代はスポンサーが何社か付いたんです。BMXで日本でスポンサーが付いたのは僕が最初だったようです。

高校3年生の時、BMX世界選手権が日本で初めて開かれました。もちろん僕も参加しましたよ。レース中盤までは2位か3位で好調だったのですが、周りの選手の転倒に巻き込まれて、頭、両 手、右足を負傷。結果は7位でした。2日間行われたレースの中で、3回も病院に行ってしまいました。

その後、BMXのテレビに出演する話があって、この時も撮影中にハプニングがあり足を完全に骨折してしまったんです。それでレーサーの道を諦めました。たくさんのレースに出場しました が、どんなに転んでも一度も棄権したことはありません。スポンサーが付いてましたからね。いつもプレッシャーがありましたが、スポンサーに喜んでほしかったから頑張れたのだと思います。

BMXはアメリカ発祥のスポーツなので「いつかアメリカに行ってみたい」 といつも思っていました。だから怪我をしてレーサーを辞めた18歳の春、「アメリカに行こう」と決意して、最初に訪れたのがハワイでした。

 

落胆を魅力に変えた1杯のラーメン

初めてのハワイは、まだ骨折した足が完治していない状態だったので松葉杖を使って兄と一緒に行きました。ここでまたハプニングが起こりました。市内観光中に兄の荷物が盗まれてしまったんです。お財布もパスポートもなくなって兄も僕もがっくりと落ち込みました。そんな時にハワイの旅行会社の女性が僕たちを元気づけるためにラーメンをご馳走してくれたんです。良い人がいるんだなぁと感激しました。おかげですっかりハワイの印象がよくなりました。

あれから30年近くになりますが、その方にお礼が言いたくて探しています。名前も分かりませんが、もしこの記事を読んでいらっしゃったらぜひご連絡ください!

人の温かさ、美しい自然、ハワイに魅了されてしまった僕は、大学時代はかなり海外旅行をしましたが、最終地点は決まってハワイ。来るたびにハワイが好きになって、どこに行っても必ずハワ イに寄ってから帰国していました。

 

火事で何もかもを失い、 ハワイアンカフェひと筋に

大学卒業後は企画会社を作ってラジオ局などのCMやキャンペーンの企画運営をしていました。何度もハワイを訪れていたので、僕の企画がだんだんハワイっぽくなっていったんです。日本にいながらハワイを感じたいなと思って、とうとう京都にハワイアンカフェを開店しました。ハワイアンミュージックを流して、ハワイのコーヒーやパンケーキを出していました。当時は「ロコモコってなに?」という時代でしたから、めずらしいこともあったんでしょう ね。人気店になり2店舗目を出すまでになりました。

毎日目まぐるしい忙しさでしたが、 ある日、1日だけお休みが取れたんです。やっとゆっくり寝られる! と思って喜んだのもつかの間。「忙しくて人手が足りないから手伝ってほしい」と店から連絡が入り、仕方なく店に行きま した。そのとき信じられないことが起きたんです。家が火事だという連絡が!

あわてて家に向かいました。タクシーの窓から見えたのは、寝室の窓から炎と煙が出ている我が家でした。もしあの時店に行かずに家で寝ていたら …。僕は呆然としました。

結局、この火事ですべて焼けてしまいました。企画をしていくための道具も洋服も。僕にはハワイアンカフェしか残っていませんでした。

 

ウクレレ「コアロハ」との運命的な出会い

ハワイアンカフェではいつもハワイの音楽を流していたので、僕もウクレレが弾けたらいいなぁと思うようになりました。そして次にハワイを訪れた時に覗いた楽器屋さんで、あるウクレレに一目惚れ! でも値段が高くて、その場では買う決断ができませんでした。その後、アラモアナセンターでマカハサンズの無料ライブがあると聞いて見に行ったんです。たまたま隣に座った女性と会話をする中で「ウクレレが 欲しいんだ」と何気なく言ったら、「友達がウクレレを作っているから工場へ連れて行ってあげる」と言うのです。

早速その工場へ行き、ドアを開けようとしたら、なんと僕が一目惚れした ウクレレのマークが! それが「コアロハ」でした。運命的な出会いを感じまし た。そこでウクレレを作ってもらえるこ とになって、しかも、ウクレレの弾き方も教えてもらったんです。それが初めてのウクレレ体験でした。26歳か27歳の時です。

 

とうとうハワイへ住むことに

ホテルに戻った僕は興奮を抑えきれず、ABCストアでおもちゃのウクレレを買って、教えてもらったフレーズを夜中まで何度も練習しました。指が痛くなっても冷やしながら夢中で弾いてましたね。

日本に戻ってからも、嬉しくてCDに合わせて毎日練習していました。僕の店に来るお客さんはハワイ好きの人が多くて、フラやウクレレをやっている人もいました。そのうちに、こういう店を やっているならお客さんより知識を持っているべきだと思うようになって、 ハワイに住むことを決めたんです。そして店を人に任せてハワイへ。ウクレレを作ってくれた「コアロハ」のお父さ んとお母さんのところに居候をさせていただいて、約1年間、朝は工場を手伝い、午後はウクレレやフラを習いまし た。本当に貴重な体験をさせてもらいました。その後はハワイと日本を往復しながら、ハワイアンバンドを組んで、 日本でライブをしたり、ウクレレと歌のレッスンをしたりしていました。

 

ハラの木の下で起きた奇跡

2005年のマウイ島でのファルセットコンテストで優勝した瞬間

 

37歳の時、ハワイの有名なアーティストに「ファルセットのコンテストに出てみたら?」と突然言われたんです。ハワイではメジャーなコンテストだったので見に行ったことはありましたが、 自分が出場するなんて考えてもいませんでした。でも、もし出場できれば僕の歌やウクレレの実力を正しく評価してもらえるので、そのアドバイスを元に今後練習をすれば上達していくのではないかと思って応募することにしました。そうしたら運良く予選を通過できたんです。

僕の師匠のひとりにブラ・カイリヴァイ(以下ブラ)という人がいて、彼からハワイの文化や音楽のことをたくさん教えてもらいました。コンテスト出場を決めた時には彼にお願いをして、 ステージで一緒に演奏してもらうことにしました。ちょうどコンテスト前に彼が日本に来たので、彼の前で一度歌ったんです。そのときブラがなんと言ったかというと「コンテストの出場、やめておく?」でした。実は僕は人前で歌うのが苦手だったんです。

そんな状態で、コンテストが開催されるマウイ島へ行き、本番を迎えてしまいました。会場はザ・リッツカールト ン。リハーサルの時点で心臓はバクバク。ホテルのスタッフたちが休憩中に僕のリハーサルを見ていたので、さらに緊張してボロボロ。彼らが途中で席を立ってしまったほどでした。

情けないのとショックでリハーサルを途中で止めて外に出ました。ホテルの近くに神聖な場所があると聞き、ブラとそこへ行きました。レイを捧げてブラがオリを唱えました。それからブラは「その場所でつながっていなさい」 と言って僕を残して海に行ってしまったんです。その時、僕にはその意味がよくわかりませんでした。

近くにハラの木があったので、その下で“今日、僕はこの曲を歌います” と心の中で言って歌いはじめました。すると不思議なことにとても上手に歌えたんですよ。そのとき風が吹いてハラの硬い葉っぱが揺れてパチパチパチと鳴って、まるで拍手をしてくれているように聞こえました。今、この芝生の上で歌うことは、大地に歌うこと。それはハワイアンの祖先たちに敬意を持って歌うということ。この拍手はそれに応えてくれた音ではないのか? そう感じた瞬間、急に気持ちが落ち着いたんです。そして思いました。“そうだ、初めてこの場に立つ者として「この場所に歌を捧げよう」”と。

 

「なんでやねん!」

本番が近づく控え室。日本人は自分だけ。周りはライバルですよね。でも、 誰かがウクレレを弾きはじめると、ひとりが歌いだして、気づくと全員で歌って楽しんでいるんです。そして順番が来ると「頑張ってこい!」と送り出す。みんなが仲間になっていて、日本人とかライバルとか関係なくて、誰が優勝しても嬉しいという人たちでした。

ついに僕の順番になりステージへ。 英語で自己紹介をして、課題曲について話し、少し笑いも取れて、決めていた通りのタイミングで演奏をはじめ、なんとか歌い終わりました。

そして全員の演奏が終わり表彰式。もう緊張もないので気楽にしていました。ところが、ハワイ語部門の発表で、 突然僕の名前が呼ばれたんです。とても驚きましたが「きっと遠くから参加したからもらえたんだろう」と思いました。嬉しかったです。その後、4位の発表があり、3位、2位まで呼ばれ、「もう自分には関係ない時間になった」と思いながら「誰が優勝するんだろう」と楽しみにしていました。すると、あり得ないことに「Hiroshi Okada」と言うんです。“なんでやねん!”と思いました。そのときの写真を見ると頭を深々と下げていますが、それは“ありがとうございます”ではなくて、 “なんでやねん!” だったんです。

その日、僕が歌った曲は「He Nani Helena(美しいヘレン)」。作者が自分の歌を聞きに来てくれるヘレンさんという女性を口説くために作った曲でした。僕はヘレンさんがどんな人か、どん な花が好きかを知りたくて、電話帳でヘレンさんと同じラストネームの人を調べて全員に電話をしました。結局見つけることはできませんでしたが、いろいろなミュージシャンに相談して、 コンテストの時に付けるレイやアロハを決めたり、できる限りの準備をしました。

そんなエピソードを歌う前にステー ジで話しました。それが伝わったのか、ハラの奇跡が再び起きたのかはわかりませんが、優勝という最高の賞をいただくことができました。こんな光栄なことはないのですが、どうしても“ハワ イアンでもない自分が優勝するのはおこがましい”という気持ちの方が強かった。だからこそ日本人としてハワイの音楽をするならきちんと演奏しよう、と身が引き締まりました。

 

音楽は“作者の心”を伝えるもの

コンテストでの優勝という重みは、 その後の僕の演奏に大きな影響を与えました。「日本人の自分がハワイの音楽を歌わせてもらうのだから、きちんと演奏しないと失礼だ」という思いが日に日に強くなり、演奏前に胃が痛くな ることも度々ありました。これまで以上に真剣に練習に取り組んだのはもちろん、作者の想いや曲が作られた背景について、さらに時間をかけて真摯に向き合うようになりました。

ハワイの歌にはハワイ語の歌詞がついていますが、ひとつひとつの言葉には実は裏の意味があったり、作者しか知らない本当の想いが隠されていることもあります。例えば、禁断の愛が書かれていて、それが表面ではわからなくて、ある言葉に暗号のように隠されていたり。とても奥が深いんです。

作者が生きていればできる限り本人に会って直接話を聞くようにしています。また、風を歌ったような曲は、実際にその場所に行って風を感じてみることもします。音楽は演じるとか弾くとか演奏するとかいう以前に、作者の思った気持ちをメロディーにのせて伝えるものだと思っています。

自分の体調管理も怠りません。以前、ある有名なミュージシャンの家で食事をした時、熱い食べ物をテーブルに運ぶ手伝いをしたら「ミュージシャンなんだから手を大事にしなさい」と注意をされたことがありました。それ以来、運転をする時も荷物を運ぶ時も手袋をしています。また、喉の調子を最高状態に保つために辛いものはなるべく避けて、ステージの前日はお酒も飲みません。万全の体勢でステージに向かうこと、それが僕の使命だと思っています。

イオラニ宮殿で演奏

 

偉大なミュージシャンから教わったこと

世界でも有名なハワイのアーティストのジェノア・ケアヴェさんと何度か一緒に演奏をさせていただく機会がありました。彼女に影響を受けた若手シンガーは数知れません。僕もその1人です。愛ある厳しい評価で僕を成長させてくれた人でした。ステージに立つ時は、彼女が笑っているかどうかが自分の演奏のバロメータで「あぁ、ちゃんと演奏できているんだ」とホッとしたものです。

2008年2月、彼女が89歳で亡くなった時、僕は日本にいたのでお葬式には行けないと思っていました。それから随分時間が経ってハワイに来た時のことです。車に乗っていたら、ラジオから「ジェノア・ケアヴェの人生のお祝いをやっているからみなさん行ってくださいね」と聞こえてきたんです。お葬式とは言わず、すばらしい人生だからお祝いなんですね。すぐに直行しましたよ! たくさんのミュージシャンが楽器を持って集まって、みんなで演奏をしながらフラをしました。僕は「泣いたらあかん」と思いながらも泣いてしまったのですが、そのときに知ったんです。

以前のようにステージ上で振り返って、自分の演奏の評価を確かめることはできないけれど、これからはいつでも空から見てくれる。だから、毎回きっちり演奏をして頑張っているのを見てもらおうって。音楽家だった父が他界した時もそう思いました。音楽家であり続けることで、たくさんの苦労と努力をした父は、僕が音楽をやることを最初は反対していましたが、そんな父にも安心してもらえるように。

そう思えた時、誰かが亡くなることに対して悲しいという気持ちはなくなったんです。ちゃんとその方とお付き合いをしていたら悲しくない、より近くなるんだと知ったから。

 

命には限りがあるから“今”伝えたい

現在は、ウクレレと歌のレッスンやワークショップを日本全国16カ所とハワイ、アメリカ本土、韓国やタイなどでしています。ハワイの人が僕に与えてくれた知識を自分だけが持っていても仕方ない。世界中の人に伝えたいと思っています。僕はこれまでの人生で2 回、死ぬ目に遭いました。最初は家が火事になった時。あの時もし家で寝ていたら僕は今ここにはいないはず。2度目は、アメリカでスリップ事故を起こして、ガードレールをなぎ倒して雪の下に突っ込んだ時。すぐ下は崖で、奇跡的にそこから落ちずに命拾いをしたんで す。人間はいつ死んでしまうかわからない。せっかく教えてくれたものだか ら、伝えるのは“今”と思っているんです。この知識を全部持って行ってもらいたい。そんな気持ちで毎日必死になってレッスンをしているんです。

ハワイは、ウクレレ以外にも、フラ、レイ、サーフィン、ハワイ語などみなさんが興味を持っているたくさんのものがあります。そして、知るほどにそれぞれ奥が深い。これまでに200回以上ハワイに来ていますが、来た回数だけハワイの魅力を感じています。ウクレレと歌に限らず、 そういう魅力も含めてすべてを伝えられたらと思っています。

ウクレレピクニックの一環で行われたアラモアナセンターでのコンテスト

 

ウクレレは絶えず嬉しい瞬間がある

僕は今40代後半。この歳になると、心から感動して喜ぶことは少なくなるなんて言われますが、ウクレレをしていると絶えず嬉しい瞬間があるんです。例えば10回演奏して、完璧に演奏ができて、それに合わせて踊る人が気持よく踊ってくれたら10回嬉しい! 1曲ごとに嬉しさがある。レッスンをしていても、生徒さんが何かひとつ覚えてくれたり、ウクレレが好きになってくれたり するのは、どれも嬉しいことです。

こうして日本人としてハワイの文化であるウクレレをできるのは、日本からの移民の方たちの頑張りがあったから。その恩返しもしていきたいと思っています。ハワイ島ヒロやラナイ島に多くいらっしゃる日系の方たちの前で 「川の流れのように」を演奏した時、とても喜んでいただきました。それを見て僕の方が嬉しくてたまりませんでした。

振り返ってみると、学生時代にレーサーをしていた時はスポンサーのために頑張って、今は踊ってくれる人と、曲を聞いて喜んでくれる人のために演奏しています。目の前で喜んでくれるのを見たい。それが自分にとって一番嬉しいことなのです。

僕が今できることは音楽。今後もハワイのよさ、深さをいろいろな人に知ってもらうために、音楽を通じてたくさんの人に喜んでもらえるように演奏をしていきたいと思います。

 

インタビュアー:大沢 陽子(日刊サン 2014. 8. 23)

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