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デジタル版・新聞

インタビュー

【インタビュー輝く人】Kupulau Jewelry & Watches ゼネラルマネージャー  サンジェイ・アローラさん

インド人の父と日本人の母を持つサンジェイさん は、スタンフォード大学卒業後に東京で就職し、春 子さんと出会い、結婚。 1 年後、阪神淡路大震災で 実家の全壊、救援、父の死を迎える。ハワイに移住後は、38歳でガンの宣告、手術、翌年にはホノルルマラソンを完走する。その後ビジネスを立ち上げ、目標に向かって歩みながらも、今日という貴重な1 日を大切に生きる、輝く人。

ライター :みなみようこ

 

 

ガンを患い人生観が変わった

あすの保証は何もない、今日を大切に生きよう

 

 

人生で一番勉強したスタンフォー ド大学時代

父はインド人で長男として生まれ、祖父 が若くして亡くなったことから、大阪にいた知人の貿易の仕事を頼りに、20歳<らいで 日本へ来て、インドの家族に仕送りをして いました。そこで母と出会い、結婚をして、私が生まれました。 幼稚園から高校までは神戸にあるイン ターナショナルスクールに通いました。

 

小さ い学校だったこともあり、野球とバスケットボールのキャプテンをしたりして、主席で卒 業しました。そのときまではそれほど勉強を がんばっていた記憶はありませんでした。 大学はカリフォルニア州のスタンフォー ド大学に行きました。すぺてが新鮮でした。 毎日起きたら空が青い。天気がよくて、まさ にパラダイスでした。

 

友人たちはフレンドリーで「今日はあそこに遊びに行くんだ!」などと声を掛け合っていて、全然勉強していないように見えました。それが普通だと思っていたら、最初のテストの時、みんなは点数が良くて、自分だけ悪かったんです。最近では「Duck Syndrome (ダック・シンドローム)」というそうで、日本でも「優雅に泳ぐ白鳥も水面下では激しく足を動かしている」と言われるように実は皆は遊んでいな がらも必死で勉強していたんです。

 

それがわかってからは猛勉強しました。 どうやって勉強しているかというと、とにかく夜に寝ないということです。睡眠時間 を削って勉強する。みんなそうしていました。今の時代と違って、コンピュータを使うにしても、自分のパソコンを持っているわけではないので、どこかに行ってやらなくてはいけない、パソコンの数も、与えられている 時間も限られているから、結局夜中にやるしかないのです。

 

授業に行ったり、その合間にバスケットボールや バレ ーボールをしたり、フリスビーを投げたり、野球の試合を観に行っ たり、アルバイトもしていましたが、それで1日が終わりではないんです。 夜は勉強、勉強、勉強。 寮に帰って来るのが午前3時や4時で、夜は寝るのではなく勉強をしているという学生生 活でした。 充実していたのは、わからないことがあればサポ ートしてくれるシステムが整って いたことです。

 

ティーチングアシスタントがいたり、教授の助手が手伝ってくれたりす るのです。向こうから『大丈夫?教えてあげ ようか?」はありません。待っていてもダメです。自分からいろいろあるリソースを使え ば応えてくれるので、わからないままという ことはありませんでした。 今は、スタンフォード大学のハワイ州卒 業生グループの会長をしています。

 

OB会の ようなもので、月 1回のミーティングがあ り、フットボールの試合でライバル校と対戦するときにスポ一ツバーに集まってス夕 ンフォードを応援したり、クリスマスパ一ティをしたりしています。他にも、ハワイの大学を卒業して、これからスタンフォード大学へ入学する人たちを送り出すパーティや試験に受かっていても入学を決めてない人を呼んでパーティをしたりする、マーケティングのようなこともしています。

 

今年スタンフォード大学へ入学した のは、オアフ島から6人、ハワイ州全体でも 10人未満でしたが、多いときには、プナホ ウ・スクールだけでも10人以上受かったり していますよ。メーリングリストは500人以上、親の世代を入れると1500人くらいに対して、色々な連絡をしたり、イベントを開催したりするのはハードワークで、もう一つの仕事のようです(笑)。

 

スタンフォー ド大学 l 年生のときにルームメイトたちと(1981~82年)。 このメンバーと今年マウイ島で50歳の記念パーティを企画中

 

阪神淡路大震災での父の死と息子の誕生

大学を卒業した後は東京で外資系証券会社モルガン・スタンレーやリーマン・ ブラザーズなどで働いていました。職場で妻と出会って結婚しました。 結婚から1年後の1995年1月17日の 早朝に、アメリカにいる友人から電話があ って、阪神淡路大震災のことを知りました。実家は私が生まれ育った神戸市の灘区にあり、友人が心配して連絡をくれたの です。

 

あのときは電話がつながらなかった といいますが、国際電話の方がつながり やすく、友人が「ご両親と話したからね、お 父さんもお母さんも無事だよ」と教えてく れ、驚いてテレビをつけて、ニュースを見ました。電話をしましたが、やはりつながり ませんでした。 震災の2日後に、妻と2人で食料と水と 壊れた屋根のカバーになるブルーシート を買い、大荷物を持って神戸の実家へ向 かいました。飛行機で大阪の伊丹空港に行き、神戸の西宮まで電車で行って、そこ で交通がなくなったので両親のいる灘区まで歩いて向かいました。

 

皆が避難して行く方向とは反対方向へ私たちは進んでいました。当時は携帯電話もないので、公衆電話に立ち寄りながら実家の近所の人と 連絡を取って、なんとかたどり着きました。 水が出ないので、お手洗いも流せず、裏 の山の沢まで水を汲みに行ったりしたので すが、1月なのでとにかく寒かったんです。 ガスはありませんでしたが、電気は使えた のでそれだけは助かりました。

 

家は全壊状態で、傾いて屋根の瓦も落ちている中で、両親と私たち夫婦で川の字で一緒に寝ました。夜中に何回も余震があったので、い つでも逃げられるように洋服を着たまま休 みました。 父はもともと心臓が悪く、ちょうど私たち が両親を東京へ連れて帰ろうと思った前 日の夜に、震災のストレスで発作を起こし、 救急車で運ばれました。

 

私たちはそのまま病院に泊まり込むことになりました。病院も水がない状態で、私たちはイスで寝ていました。父はすぐに快復しなかったので、一 度東京に帰り、父の容態が落ち着いた数週間後に東京の病院に入院させました。でも震災からちょうど1ヶ月後の2月17日に亡くなりました。妻は、父を看取ったときに感じたも のがあったといぃ、すぐに調べたところ、息子がお腹にいたのです。

 

息子はその年の10月17日に生まれました。父 の生まれ変わりかと思っていました が後にインド人の霊能者に「この子はお父さんの生まれ変わりだよ」と言われました。 父の遺灰は父の故郷であるインドの ガンジス川に流しました。

 

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