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インタビュー

【インタビュー輝く人】ハレクラニ・ホテルマン 方志勲さん

人生の転機は高校1年生の時にやってきました

日本に帰って来た時、父の職場は東京に なっていました。考えた末、世田谷区二子玉川にあるセント・メリーズ・インターナシ ョナル・スクールに行くことにしました。こ の学校は、幼稚園から高校まで67カ国の 人たちが通う学校です。

 

宗教も文化も肌の 色も違う人が集まり、英語というコミュニケーションツールだけが唯一の共通点という中での中学・高校時代は、当時の日本の 中学生、高校生とは全く異なる生活になりました。いい意味でアメリカナイズされた 学生生活を、日本で送ることができ、それ は私にとって大きな意味があることだと感じています。

 

中学1年から3年生までは、英語力を伸ばすのに相当時間がかかりました。今のよ うに電子辞書なんてありませんし、毎回毎回辞書を引いて、線を引き繰り返し覚えま した。

 

日本でいう国語の時間の、 「20ペー ジから40ページまで読んでくること」とい う宿題でも、私にとっては大変なんです。1ページを読むのに30分かかるので、20ペ ージを読むには気が遠くなるような時間がかかるわけです。

 

高校1年生くらいになるとようやく耳が発達してきて、友達ともよく話せるようにな り、英語が上手くなっている実感がありま した。その時、交換留学生としてロンドンヘ 行き、インターナショナルスクールで1年間、寮生活をしました。

 

ちょうど1988年の ソウルオリンピックの時で、偶然にもロンド ンの寮生活で出会い、仲良くなったのは、 全員韓国人だったのです。ロンドンまで行 って(笑)。小学校1年生から高校生まではほとんど日本にいたので、韓国人の友達がいませんでした。ここで急に韓国の文化、歴史、 ドラマや歌に触れることになり、それが新鮮に思えました。

 

ロンドンで1年間過ごして一番伸びたのは韓国の知識です。同時に韓国への愛国心も芽生えました。同時に、外 にいる韓国人として韓国を見て、そして外 から日本を感じることができ、ロンドンから両方の母国を感じました。

 

私がホテルマンになるきっかけの年がこ の1988年でした。ロンドンの学校のプロ ジェクトでプロフェッショナルの方にインタビュ一をするというホームワークがありま した。その際に、ロンドンにあるルネッサン スホテルの総支配人に話を聞くチャンスがあったんです。彼は、高校生のインタビュー を快く受けてくださいました。

 

私が「なぜこの仕事をされているのですか」と質問をしたところ、彼の答えが印象的だったのです。

 

「社会にはいろいろな職種がある。この 世の中は競争が厳しく、多くの方たちと競争をして上に行く。それもすばらしいことだ けれど、我々がしているホテルの仕事は、み んなを喜ばせてみんながハッピーになることで自分もハッピー になる。そういう仕事は 実はなかなかないんだよ。」

 

もともと人をまとめたり、世話したり、友達との旅行を企画して日程を組んだりする のは好きでしたが、それを職にしようとは 全く考えていませんでした。でも、その日を境にホテルに勤めることってすばらしいな と思い始めたのです。

 

今年3月のハワイ初の市民駅伝「ホノルルレインボー駅伝」にチームハレクラニとして 男女各チームが出場。バンさんはアンカーで、自己新記録を達成。

 

ホテルマンヘまっしぐら

ロンドンから日本のインターナショナルスクールに帰ってから、SATという実カテストを高校2年生で受け、大学を選んで志願書を出しました。ホ テルの専攻が強い学校の当時 の2位から7位までの学校を選びました。

 

その後、ホテル経 営学が優秀な大学、コロラド 州のデンバー大学に行き、ホ テル経営学を学びました。大学ではインターンシップが必須です。ロンドンで話を伺った、ルネッサンスの総支配人に、あなたの言葉に心打たれたという話をして、彼の推薦で大学 1 年生の時にソウルのルネッサンスホテルでインターンシップをしました。

 

2年生の時は、ルネッサ ンスホテル札幌という、初めて札幌にでき た外資系ホテルに行きました。テーブルクロスのたたみ方、ワイングラス の磨き方、ハウスキーピングなど基礎を徹底的に学びました。

 

ハウスキーピングは単純作業を確実に100%コンスタントにやる んです。99%でいいわけではない。1回ずつ布団をカバーから出し入れするなど、大変 な仕事でした。予約課の仕事では、当時はク レジットカードを持っている人はほとんどい ないので、電話で予約をとってノートに書く のですが、ギャランティーもなく、当日実際に来ていただけるかもわからない時代でし た。

 

ホテルは100%満室を目指すので、予約を120%くらいとっておき予約のお客様が客室の数以上いらした場合は、違うホテル のお部屋をご用意し、そこでのチェックイン を確認するまでが予約課の仕事でした。

 

3年生になると、次はアメリカで行いたいと思い、これまでの経験と今後したいことを書いて、ウェスティン、シェラトン、ハイア ット、ヒルトンに打診しました。そして、シェ ラトンホテルから「ハワイにいかがですか?」オファーをいただきました。

 

これはビ ッグチャンスと感じ、学校を休学して6ヶ月間ハワイに住み込みで、ロイャルハワイアンホテルでインターンシップをしました。それまでハワイで働くことは全く頭にな かったのですが、これがハワイとの出会いでした。

 

その後、ロィャルハワイアンホテル の総支配人に、大学卒業したら帰ってこな いかとオファーをいただき、1996年の卒 業式の2日後にはロイャルハワイアンホテ ルで働きはじめていました。

 

ホテルアシスタントマネージャーとして働いたのですが、この仕事は色々な部署 の最終的な責任者です。ハウスキーピング、 フロントオフイス、ベル、プール、コンシェル ジュのエリアの代表として、夜に総支配人が帰宅した後は私がホテルの責任者となるわ けです。

 

この役に抜擢されたのは驚きましたが、インターンシップでの経験や信用、当時、 日本語と英語ができるマネージャーは少な く、ホテル経営学を大学で学んだ人も少な かったからだと思います。その時の総支配人はバンケットのサーバーからトップまで上り詰めた方で、彼の下でホテルの基礎を徹底的に学ばせていただきました。

 

また、日本人の観光客が増えているタイミングで、自分 のパフォーマンスができる場が多く、たくさ んの経験を積むことができました。 その後、シェラトンワイキキホテルで、自分が希望していた営業職であるホテルセールス&マーケティングの仕事に就きました。現場を知った上で、今度はその商品をどう売っていくかという仕事に興味があったのです。

 

1999年は日本人観光客が非常に多く、年間の観光客数は220万人くらい(現在は約150万人)でした。こうした中で、シェラトンワイキキホテルが持つ1700室という分母を企画して売っていくという 醍醐味を味わえる仕事でした。一般の営業 ではできない仕掛け、企画をし、それが数になって表れるんです。

 

その頃は80%の方 がパッケージツアーでしたから、旅行会社 の方々と、今でこそ当たり前になった、低層階・中層階・高層階やオーシャンビューというカテゴリーに分けて価格を変えるプラ ン、チェックインの時間を早くする企画をし たりしました。

 

3年後の33歳の時、今度はスターウッ ド・ホテル&リゾートで、シェラトンワイキキだけでなく、マウイ島、カウアイ島、ハワイ島にあるホテルを担当する、アジアの営業部 長になりました。オフイスはホノルルにあり、朝はカウアイ島でミーティング、飛行機でマウイ島に移動後、仕事をして1泊し、翌朝はハワイ島へ行くという日々。この3年間 は人生で一番忙しかったですね。

 

その後は、スターウッド・ホテル&リゾー トが持つ12個のホテルをすべて見る統括戦略マーケティング部長として2年間働き ました。

 

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