【インタビュー輝く人】俳優 ケイリー=ヒロユキ・タガワさん

 08/10/2013

日本に生まれ運命的にアメリカで生きることになった1人の男。宝塚出身の母を持ち、役者という人生を選んだ彼は、同時に日本人としてアメリカで生きることの困難さとも立ち向かってきた。夢を実現させるために長い年月を費やしながらも、決してあきらめることはしなかった、日系アメリカ人アクター、ケイリー =ヒロユキ・タガワさんの、これまでの軌跡とこれからの夢を伺いました。

 

 

日本人としての誇りを守った役者魂

 

日本人だから、負けてはいけない

僕は東京の麻布で生まれました。旧ソ連の大使館のすぐ近くでした。父は日系アメ リカ人の2世で、母は宝塚の女優で歌手の旗マリ子、伯父もジャズ アーテイストでした。そういう環境にいたので、自然にエンターテイメントの世界に興味を持ったのかもしれません。

 

僕が5歳のときに家族でアメリカに移住することになりました。父が20年間アメリカ軍にいましたので、メインランドの軍の施設、ノースカロライナ、ルイジアナ、テキサスをほとんど2年おきに転々とすることになりました。戦後10年のことでした。

 

周りにはまったく日本人はいなかったです。そしてそんな中で地元の学校に通いました。 そのころアメリカの軍は50%以上黒人系などの有色人種で、それゆえに差別もひどかったのです。

 

しかし母はお嬢様育ちなわりにとても勝ち気な人で、若干6歳くらいの子どもの僕に、日本人は負けたらいけない、どんなことがあっても強くなれ、と教えたのです。

 

自分はケンカをして強くなるよりも、人の上に立とうと考えるようになりました。授業中に先生が生徒に質問をします。みんな自分の答えに自信がないから手をあげない、それで僕はどんどん真っ先に手をあげました。

 

たとえ間違っていても、その方がだまっているよりずっと良い、と考えたからです。 普通だったらいじめられていたかもしれません。周りから馬鹿にされていたかもしれませんが、僕は学校のいろいろな行事で、率先してリーダーを買って出るようになりました。僕はすでに、無意識に何でもいいからリ ーダーを目指していたのですね(笑)。

 

僕は高校に入るまで転校が多かったので、高校に行ってようやく地元の友達がで きるようになりました。 1年目でクラスの代表に立候補してみましたが落選し、悔しさ からさらに友達付き合いを広め、2年目で クラスの代表を努めることができました。

 

それだけでは飽き足らず、また次の年には、生徒会長にまで上り詰めてしまいました。

 

初めての「役」はアーサー王

高校生のころから、ドラマや演劇にとても興味を持つようになりました。学校の行事で、演劇の「キャメロット」をやることになりました。イギリスのアーサー王の物語です。

 

自分の弟以外たった一人の日本人だった僕が、いきなり主役のアーサー王に抜擢されてしまったのです。 それから演劇の専攻で大学に行きたいと思っていたのですが、そのころ僕に演劇を教えてくれていた先生が、こう助言したのです。

 

「大学に行っても、結局は古典のシェイクスピアをやるようになるだけだ。それよりも社会に出て、もっといろいろな人生経験を積んだ方がドラマを学ぶには良い。」と。 それから本当にいろいろなことをやりました。

 

朝 4時から起きて農家の仕事から始めました。セロリなんかの栽培を手伝っていたのです。先生は何年下積みをすればいい、なんて言ってくれませんでしたから、結 局は19年、役者を本職とするまでにかかってしまいました。

 

ロサンゼルスに出て来ましたが、あそこには役者を目指している人なんていくらでもいたのです。僕みたいにいつか役者をやりたい、という人はなぜか飲食店で働いていることが多かったです。

 

たくさんのお客さんや、店員と顔を合わせるわけなので、自然に人間観察ができるようになるのですね。チップも良かったし・・・。

 

だけど僕はレストランの仕事だけはせずに、貿易の仕事やファッション雑誌の記事を書いたりしていました。そのころはUSC (南カリフォルニア大学)に通っていました。

 

結局勉強しながら仕事もさまざまやり、気が付いたら20年近くの年月が経っていました。役者としては相当な遅咲きかもしれませんね。

 

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