【インタビュー輝く人】ハレクラニ・ホテルマン 方志勲さん

 04/27/2013

ハレクラニのアジア営業部長、方志勲さんはハワイのホテル業に17年間携わるホテルマン。 韓国のソウルで生まれ、小学生の時に日本へ引越し、外国人と して違いを認めること、調和することを知る。インターナショナル スクールでは67カ国の人と文化の中で、英語という共通の言葉 を通して、主張し相手を受け入れることを学ぶ。高校 1 年生で口ンドンヘ留学した時、ホテルマンヘの道を目指す出会いがあり、 その後アメリカコロラド州のデンバー大学へ入学して、ホテル経営学を専攻する。卒業後、ロイヤルハワイアンホテルヘの就職が きっかけとなり、ハワイに移住。今、人生のゴールヘ向かって突き進む、輝く人。

ライター:みなみようこ

 

夢は自分のホテルを持つこと
そこで真のホテルマンを育てることがハワイヘの恩返しです

 

人生の第一章はソウルから大阪へ移住したこと

生まれは韓国のソウルです。父の仕事の 関係で小学校 1 年の終わりに家族で大阪に行くことになりました。大阪城の麓にある公立の小学校へ通ったのですが、日本語 の 「あいうえお」もわからない状態でした。

 

最初は外国人として珍しがられ、ちやほや されていたのですが、小学2年生になると、 日本語ができないということで風当たりが強くなっていきました。そこで、自分が外国人であるということを初めて知り、自分とみ んながどこか違うと認識しました。理不尽に差別されるところもありました。

 

こうした中で、母になぜ自分だけみんな と違う名前なのか日本人の名前がほしいと言ったんです。母は、韓国で生まれたあな たの名前がどれだけすばらしいものか、と話してくれました。それを聞いた時、反発しながらもどこかで 「そうなんだ」と納得できました。

 

それ以来、どの国に行っても自分の 名前を一度も変えていません。日本の名前にもアメリカの名前にも変えようと思いませんでした。 小学3年生頃になると日本語も普通に話せるようになり、野球のリトルリーグに入ったのですが、そこで初めて仲間というものができました。本当に仲良くなって、今でも彼らとはよく連絡をとっているほどです。

 

外国人であることを認識しながら、日本 の社会で生きていくという小学校での経験 は、私の人生のベースになっています。主張することの必要性を知り、毎日のように喧嘩もしましたが、そうすることでみんなの同 意を得ることもできました。日本のみんなに 受け入れられるまでが自分のひとつの物語 だと感じています。ここで得た経験は大き く、自信になり、基盤にもなっています。

 

 

日本語習得と英語習得は大きな違いでした

予想以上に父が長く日本に駐在していたこともあり、小学校卒業後の進路について、緯国人として、いつしか帰らなければ ならない立場で、どういう教育をすべき か?と家族で話し合いました。 韓国語と日本語が話せるのなら、次は 英語だということになりました。

 

活発な子供で、日本で6年間サバイブできたので、 今度は1人でアメリカのカリフォルニアにあるオレンジカウンティにホームステイを しました。3月の卒業式の翌々日にはアメリカにいました。ちょうど1984年のロサンゼルスオリンピックの時で、街が盛り上がつていたのを覚えています。

 

ハ ンティントンビーチにある公立の学校に通ったのですが、当時はその学校に アジアの人は全部で3人しかいない時代でした。英語の知識は、ABCD、Eの次は 知りませんでしたが、日本に住み、日本語 ができるようになったので自信はありまし た。ところが、日本語と韓国語は文法は一緒なので大体イメージができたのですが英語は文法が全く逆。

 

毎日ボキャブラリー を覚え、猛勉強をすることになりました。 日本に行った時は、黙っていれば外国人とわかりませんでしたが、そこにはアジア人 は少ない時代だったので、いつなんどきも 外国人として扱われ、常に自分は外国人な んだと感じました。

 

予想していた次元とは あまりにも違っていて、ホームシックにな り、毎晩毎晩泣いていました。泣いているの がホストファミリーにわかってしまうと、両親に連絡されると思ったので、枕を顔に押 し付けて、声が聞こえないように泣きまし た。いつまでアメリカにいるのかもわからな かったこともあり、どうしていいかわからず不安だったんですね。

 

1年が過ぎた頃、ビザの関係で一時日本に帰国したのですが、その切り替えがうまくいかず、アメリカに帰れなくなってしまったんです。英語の習得も途中だったので、負 けず嫌いな自分としては、予定が変わったことがショックで、途方にくれました。

 

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