日本の山岳信仰とハワイの山の神話

 08/31/2019

アジアを中心としたさまざまな国や地域に見られる山岳信仰は「すべてのものには霊魂が宿る」というアニミズム的な原始宗教を起源とする自然崇拝の1つです。縄文時代から続くと言われる日本の山岳信仰は、自然崇拝、神道、仏教の習合など、信仰の形を変えながら現在までの長い歴史を紡いできました。また、火山の多いハワイにも日本とは違う形の山岳信仰があり、神話として語り継がれています。今回のエキストラ特集では、日本の山岳信仰と、私たちが住むハワイの山にまつわる神話を合わせてご紹介します。

 

 

日本の山岳信仰 ― 自然崇拝、神道、仏教の習合

日本では、古代から人々の生活に恵みをもたらす山には神が住むと言われてきました。雄大な姿の山は、湧き水などの水源、食料を狩る狩猟の場、鉄が採れる鉱山などがあり、古神道では神奈備(かんなび)や磐座(いわくら)という神が鎮座するといわれていました。一方で、青森県の恐山のように死者の魂が集う霊場として信仰される山もあります。  

 

仏教では、世界の中心には須弥山(しゅみせん)という高山があると考えられており、空海が開いた高野山や最澄が開いた比叡山は、仏教も山への畏敬の念によるものでした。これは、平地にある仏教寺院の号「○◯山◇◇寺」の由来でもあります。この仏教の考え方と、古代の自然崇拝、自然崇拝が発展した神道が習合したものが山岳信仰といわれ、江戸末期までは、一般に神仏習合や修験道として信仰されていました。

 

 

山の神

山の神は山神、または山祇(やまつみ)と呼ばれます。「やまつみ」もは国津神としての性格を表す「祇」の字があてられます。山に住む山民と山のふもとに住む農民とで、祀り方や性格が異なります。

 

農民にとっての山の神

昔から、日本の農民の間では「春になると山の神が山から降りてきて田の神になり、秋には再び山に戻る」という山の神の信仰がありました。1つの神に「山の神」と「田の神」という2つの霊格があるという考え方です。日本では「死者は山の中の常世へ行って祖霊となり、子孫を見守る」という信仰があり、祖霊として山の神を祀る地方もあります。

 

また、正月にやってくる「年神」も山の神と同じものとされます。その他、農業に必要な水を操るといわれる水神信仰や、豊饒をもたらす神が遠くからやってくるという来訪神(まれびとがみ)信仰と関係がある場合もあります。

 

 

山民にとっての山の神

猟師、きこり、炭焼き人などの山民にとって、山の神とは毎日の生活を支える仕事の場としての山を守ってくれる存在でした。農民の田の神のように来たり去ったりするものではなく、常にその山にいるとされていました。山民の山の神にまつわる禁忌は多く、例えば12月や12日など、12のつく日には山の神が木の数を数えるため、山に入ることが禁じられたりします。

 

また、埼玉県秩父地方の近隣にある長野県の南佐久郡では、大晦日に山に入ることが禁忌となっていて、これを破ると「ミソカヨーイ」という誰のものか分からない叫び声が聞こえ、振り返ろうとしても首が回らなくなってしまう、という言い伝えがあります。

 

 

鉱山の神  

かつて、多くの日本の鉱山では、安全と繁栄を祈願して山の神を祀っており、一般的な高山には『古事記』で金山毘古神、『日本書紀』で金山彦神と記されるカナヤマヒコを祀る神社がありました。カナヤマヒコは日本神話の「神産み」で、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし、苦しんでいるときに嘔吐したものから生まれた神とされています。

 

火の神が起こしたイザナミの火傷が元で生まれたカナヤマヒコは、鉱山や金属を司る神として崇められるようになりました。鉱山の多かった岐阜県の垂井町にある南宮大社は、カナヤマヒコを祀る神社の総本宮として古くから信仰されています。境内には18棟の江戸時代の遺構があり、国の重要文化財に指定されています。

 

林業の神  

愛媛県の石鎚山は山岳信仰の聖地の1つ。写真は石鎚山の星が森にある鉄(かね)の鳥居(愛媛県)。

 

林業神として広く崇められているのは、日本神話に登場するオオヤマツミです。『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神、他大山積神などと表記されています。

 

オオヤマツミは、イザナギとイザナミの子で、産まれる時にイザナミを火傷させて死なせてしまったカグツチをイザナギが斬り殺した際、オオヤマツミ、イカヅチ、タカオカミの三神が生まれたとされています。古事記で表記される大山津見神は「大山に鎮まる霊」または「山津持」という意味があり、山々を統括する神ということを表しています。

 

 

日本の山岳信仰の代表 富士信仰

縄文時代末期から信仰があった?  

日本一高い山でバランスの取れた姿が美しい富士山は、古代から神として、またさまざまな神がいる場所として信仰されてきました。富士山の周囲では、千居遺跡や牛石遺跡などの縄文時代末期の祭祀遺跡が発掘されていますが、これらの遺跡には富士信仰と関係があると言われる配石遺構(ストーンサークル)があることから、縄文時代末期には既に富士信仰の原型があったのではないかと言われています。

 

以後、富士の山神はさまざまな名称で呼ばれ、奈良時代初期に編纂された常陸国(茨城県)の地誌「常陸風土記」では「福慈神」と、奈良時代末期の「万葉集」では「霊母屋神香聞」、平安時代の「富士山記」では「浅間大神」と称されています。

 

自然崇拝から富士修験へ  

飛鳥時代に仏教が日本に伝わった後、富士信仰は自然崇拝を基礎とした山岳信仰と習合し、「山林仏教」として発達したと言われています。富士山を聖地として登拝する人々は「富士道者」と呼ばれました。平安時代初期の伝承説話集「日本霊異記」には日本最古級の富士登山の記録があり、修験道の開祖、役行者(役小角)について「夜往駿河、富岻嶺而修」と記されています。

 

同時代の史書「本朝世紀」の一節「是即駿河国有一上人。號富士上人、其名稱末代、攀登富士山、已及数百度、山頂構佛閣、號之大日寺」には、末代上人が富士山頂に大日寺を建てたことが記されています。富士開山の祖と言われる末代上人はその後長く続くことになる村山修験(富士修験)の基礎を築いた人物でした

 

「富士講」とは?  

北口本宮冨士浅間神社

富士山周辺へ行くとよく見聞きする「富士講」という言葉。これは、富士山と富士の神霊への信仰を目的とした講社や信仰そのものを指す言葉です。富士講は、江戸時代初期に現在の静岡県にある富士山麓の人穴で修行したという修験道の業者、角行が創唱した富士信仰に由来する民衆信仰で、のちに講社が組まれ、以下の3つが掟とされました。

・良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し。

・稼げは福貴にして、病なく命長し。

・怠ければ貧になり病あり、命短し。

 

46枚から成る『冨嶽三十六景』は富士講の大流行に影響されて描かれたと言われている。

『冨嶽三十六景』より「武州玉川」 葛飾北斎(1830〜1832年頃)

 

江戸八百八講、講中八万人  

その後、角行の弟子から教えを受けた食行身禄(じきぎょうみろく)が「家業を真面目に勤めることが救いになる」と説きながら布教し、富士講は関東地方を中心に庶民の間で大流行しました。

 

特に1707年の宝永の大噴火の後、復旧活動に難儀していた大宮口や須山口には、江戸や関東から多くの参拝者が訪れたと言います。富士講の最盛期には、100軒近くの御師の家が吉田口に軒を連ねるなど、「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどの隆盛ぶりでした。

 

御師の役割と信仰活動  

富士講の指導者は御師(おし)と呼ばれ、富士登山の際に随行し、富士講の講員の宿泊所を提供する役目も担いました。閉山期には、江戸を中心とした各所にある富士講の集会所を訪ね、教えを説いて回りました。夏に富士が開山すると、富士講の講員たちは河口や吉田にある御師の家を訪ね、宿を提供してもらいました。

 

御師は講員たちに登山の道筋を教え、食料や装備などを提供したりなど、富士登山のための世話をしていました。現在まで続いている富士講の信仰活動の基礎は「オガミ」という定期的な行事と、富士詣と呼ばれる富士登山です。オガミでは、「オツタエ」と呼ばれる教典が読まれた後、「オガミダンス」という組み立て式の祭壇の前で「オタキアゲ」が行われます。

 

浅間(せんげん)講  

上述の富士講とは別のグループとして、浅間講という富士講もあります。中部地方、近畿地方で信仰されており、活動の一環として、初夏に「富士垢離」と呼ばれる水行を行います。  

 

富士登山は2年に1回で、富士に登らない年は奈良県吉野郡の大峰山に登ります。

 

 

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