6月11日はカメハメハデー!【これだけは知っておきたいカメハメハ大王物語】

 06/08/2017 : 2847 Views

当時、土地はすべて王のものであり、個人で土地を所有するという概念がなかったハワイですが、1848年に、土地を所有し、それを財産とみなす西欧型の考えに基づいたマヘレ法が制定されます。一般の人にも土地所有を認めるという画期的な法律でした。外国人にも土地所有の権利が認められたことから、やがて西欧人は次々と土地を買い取っていったのでした。  

こうしてハワイを近代国家としたカメハメハ3世は1854年に41歳の若さで亡くなりました。

 

人々の健康に注力したカメハメハ4世

1855年、カメハメハ3世の養子で、3世のもとで閣僚として行政経験を積んでいたアレキサンダー・リホリホが4世として王位に就きました。4世は10代の時に教育目的で兄のロットとアメリカやヨーロッパなど多くの国々を巡訪した経験があり、語学も堪能でした。

この頃のハワイ王国は、アメリカからの移民が急増し、政治や経済において圧力を受けるようになっていました。4世はアメリカからの征服を危惧し、イギリスとの関係を強化していきます。  

4世の妻は、エマ・ルーク(後のクイーン・エマ)。海外から持ち込まれたハンセン病などの流行が恐れられ、カメハメハ夫婦は基金を募って1859年にクイーンズ・ホスピタルを完成させた他、マウイ島にも医療施設を建設しました。  

イオラニ・スクールなど英国国教系のミッションスクールが創設されたのは1863年。イオラニの名前を与えたのはクイーン・エマとされています。  

妻のクイーン・エマとともにハワイの人々の健康にも尽くした4世は、愛息アルバート王子を4歳で亡くし、その後自身も体調を崩して1863年にわずか29歳で生涯を終えました。

 

 

カメハメハ時代の終焉

カメハメハ4世の死去後、その兄ロット・カプイワがカメハメハ5世として後を継ぎました。5世も4世と同じく、アメリカの動きにに細心の注意を払い、親英路線を保ちました。さらに欧米の支配を免れるために、1864年には王権を強化した新憲法を公布しました。  

1871年、5世は今のハワイ州の祝日、6月11日の『カメハメハデー』を制定しました。ハワイを独立王国として築き上げたカメハメハ大王を尊敬していたことが伺えます。  

また、1872年にハワイ王朝初の政府用建造物であり、現在ホノルルのカメハメハ大王像の後ろに建つアリイオラニ・ハレの建設を決定しました。

 

 

 

それからまもなくして、1872年に5世は42歳で他界してしまいます。独身であり、王位継承者を指名できずに亡くなったため、次の王位は議会の選挙で選ばれることになりました。  

ここでカメハメハ時代が終焉を迎えたのでした。

 

カラカウア王の妹で、ハワイ王朝の最期の女王、リリウオカラニ。名曲「アロハ・オエ」の作者としても知られる。

 

〜 元年者がハワイへ到着 〜

一時期は500隻もの捕鯨船が入港していたハワイ。やがて捕鯨は減少し、砂糖生産業が第一産業へと移り変わっていきます。こうした時代背景の中で、ハワイへの日本人の最初の集団移民153人を乗せたサイオト号がホノルルに到着したのはこの頃(1868年)でした。

 

年表で見るカメハメハ王朝

 

1758年頃 カメハメハ大王(1世)がハワイ島北部カパアウで生まれる
 1778年 キャプテン・クックがハワイ諸島を発見
1795年 カメハメハ大王がヌウアヌパリで勝利し、ハワイ王国成立
1805年頃 白檀の輸出が本格的に
1810年 カウアイ島とニイハウ島もハワイ王国となり、 カメハメハがハワイ統一を成し遂げる
1819年 カメハメハ大王がハワイ島カイルアコナで死去。息子のリホリホがカメハメハ2世に即位。捕鯨船がハワイに
 1824年 カメハメハ2世がロンドンで死去
 1825年 2世の弟がカメハメハ3世に
1840年 3世がハワイ王国の憲法を公布
1854年 カメハメハ3世がホノルルで死去
1855年 3世の養子アレキサンダー・リホリホがカメハメハ4世に
1860年頃 砂糖産業の輸出が盛んになる
1863年 カメハメハ4世がホノルルで死去。4世の兄、ロットがカメハメハ5世に
1864年 5世が新憲法を公布
1868年 元年者移民がハワイへ
1871年 5世がカメハメハデーを制定
1872年 カメハメハ5世がホノルルで死去

5世が王位継承者を指名しないまま死去したことで、時期王位は議会の選挙で選ばれることになり、カメハメハ王朝は終焉を迎える。尚、『ハワイ王国』は1893年の革命により『ハワイ共和国』となり、1898年にハワイ準州としてアメリカ合衆国に併合されて消滅した。

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