6月11日はカメハメハデー!【これだけは知っておきたいカメハメハ大王物語】

 06/08/2017 : 2607 Views

 

毎年6月11日はハワイ州の祝日「カメハメハデー」。ハワイ州が独自に定める、1年に3日の祝日のうちのひとつです。今回はハワイを語る上で外せないカメハメハ大王について、シンプルにヒストリーをまとめました。今さら聞けない! という人も、この機会に基本の“き” を押さえておきましょう!

 

カメハメハが大王になるまでのハワイ

カメハメハ大王が生まれたのは1758年頃。ハワイ島北部カパアウが生誕の地です。それまでのハワイは、それぞれの島、地域ごとに有力者がいて、その下に社会が構成されていました。  

1778年、イギリスの探検家ジェームズ・クック船長率いる一行がハワイの島々を発見します。その時にハワイにつけた名前は「サンドイッチ・アイランド」でした。

北アメリカ大陸とアジアの間に位置するハワイは、貿易船の補給などに絶好の場所で、この時から西洋諸国の人々との接触がはじまりました。それまで外界との交流はほとんどなかったため、これによりハワイは急激な変化を遂げたのでした。

 

カメハメハ1世の肖像

 

カメハメハ1世がハワイ王朝樹立へ

ジェームズ・クック船長がハワイ諸島を発見した頃、マウイ島とオアフ島を統一していたのはカヘキリ王。ハワイ島はカラニオプウ王が支配していました。その甥がカメハメハです。

1782年、カラニオプウ王が死去します。ハワイ島は3つに分裂し、そのうちのコナを支配したのがカメハメハでした。カメハメハはハワイにやってきた西欧人から大砲などの近代兵器の使い方などを習得し、そこからメキメキと頭角を現します。  

1790年、ハワイの島々を統一するようカフナ(神官)から助言を受けたカメハメハは、それを実現するためにハワイ島北西部のカワイハエに「プウコホラ」を建てました。今ではハワイ最大規模の復元 ヘイアウ(神殿)となっています。

 

 

まるで要塞のようなヘイアウ「プウコホラ」。国立公園制度で保護されている観光名所。

 

1794年、マウイ島やオアフ島を支配していたカヘキリ王が亡くなると、カメハメハは一気にマウイ島めがけて攻めあがります。1795年2月、マウイ、モロカイ島を手中に収め、その後オアフ島に上陸。ヌウアヌ・パリで勝利。「ハワイ王朝樹立」を宣言しました。

この時まだ勢力下になかったのはカウアイ島。1796年、カメハメハはカウアイのカウムアリイ王に対して、15,000人の兵力を率いて攻撃を仕掛けます。しかし大暴風雨に遭って諦めます。1803年、再びカウアイ島に向かうものの、同時期にペストが大流行し、この時も侵攻を断念せざるを得ませんでした。  

不思議な力に守られたカウアイ島でしたが、その後カウムアリイ王は自らの判断でハワイ王国の傘下に入りました。これにより、カメハメハは1810年にハワイの島々の統一を成し遂げたのでした。

 

大王によるハワイ王朝

カメハメハは語学も堪能で外交感覚に優れ、イギリスやアメリカとの友好関係を築き上げることにより、ハワイの独立を守りました。また、身長が約2mあったカメハメハは、武術にも知力にも富んでいたため、諸外国は干渉を控えたとも言われています。さらに、中国に対して白檀を輸出するなど、王朝の経済も安定へと導きました。  

ハワイ諸島を初めて統一してハワイ王国を建国し、初代国王となったカメハメハ大王は1819年5月、ハワイ島カイルアコナで家族らが見守る中、息を引き取りました。

 

カメハメハ1世が余生を過ごしたとされる「アフエナ・ヘイアウ」。現在はキング・カメハメハズ・コナ・ビーチ・ホテルの敷地内にある。

 

変化が激しかったカメハメハ2世の王国

カメハメハ大王没後、長男のリホリホがカメハメハ2世として王位に就きました。  

この時代は大きな変化が訪れます。白檀の乱獲により木が枯渇し、王国の経済の主軸は捕鯨へと移っていきます。また、それまでハワイ社会規範であった「カプ制度」が廃止され、男女が共に食事をしても処罰を受けないなど、ハワイの人の生活が大きく変わりました。  

さらに、1820年にはアメリカからの宣教師がハワイ島カワイハエ、オアフ島ホノルルに上陸します。彼らによるキリスト教の布教で、ハワイが大きく西欧化することになったのでした。  

カメハメハ2世は1824年、たった5年間の在位で病に倒れ、この世を去りました。

 

 

多くの功績を残したカメハメハ3世

カメハメハ3世は、2世の弟カウイケアオウリ。つまり、カメハメハ1世の息子でわずか10歳にして1825年に即位しました。この後カメハメハ3世はハワイにとって大きな功績を残したのです。  

この頃の経済は、北太平洋の真ん中という好条件を生かした捕鯨によって安定していました。  

3世は、1840年に憲法を公布し、ハワイで立憲君主制度が成立します。奴隷制の禁止などが盛り込まれ、ハワイアンの人々の選挙権も一部認められました。こうした憲法制定により、イギリスやアメリカ、フランスはハワイ王国を独立国家として承認するようになったのでした。  

教育についても変化が起きます。1841年、キリスト教会衆派教会系の教育施設としてプナホウ・スクールが開校したこともきっかけとなってハワイの教育水準が高まっていきました。

 

 

 

1845年にはハワイ王国の首都がホノルルへ移されました。  

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