【国際空港名になったアメリカンヒーロー】ダニエル・K・イノウエ

 05/29/2017 : 2932 Views

アイリーン夫人と

 

アメリカの政治リーダーの一人であり、第二次世界大戦時の伝説的活躍で知られるダニエル・K・イノウエ上院議員(88)は、2012年12月17日、呼吸器合併症のために死去しました。イノウエ議員は上院で最も古参の議員として、大統領継承順位第3位の高位である上院仮議長に選出され、亡くなるまで同職にありました。  

ハワイ最初の上院議員であり、アメリカで最初の日系人上・下院議員として50年以上に渡って活躍してきたイノウエ議員の軌跡をたどります。

 

 

生い立ち

1924年9月7日ホノルルのクイーン・エマ・ストリートの自宅で生まれたダニエル・ケン・イノウエは、マッカリー・モイリイリ地域で成長しました。当時、この周辺は貧しい労働者階級の日系アメリカ人が多く住んでいました。  

イノウエ氏の父・兵太郎は、幼い頃にカウアイ島のサトウキビプランテーションで仕事を得た両親と共に移住しました。一家は借金を返済するまでハワイで働き、その後は日本に戻るつもりでしたが、結局そのままハワイに留まることになりました。  

イノウエ氏の母・かめは、マウイ島で日本人の両親から生まれ、幼い頃に両親を亡くし、ハワイアンの家族の下で育てられ、後にメソジスト教会の施設に移りました。兵太郎とかめは教会で知り合い結婚。ダニエル・ケン・イノウエは、4人兄弟の長男として生まれました。  

一家は決して裕福ではありませんでしたが、食べるのに事欠くということはなかったようです。父は宝石店で熱心に働いており、貧しさを気にする暇もなかったそうです。  

ダニエル少年は家で日本語を学び、放課後は日本人学校にも通っていました。しかし自分のことは第一にアメリカ人であると考え、アメリカの革命的な歴史や建国の父たちの民主主義の理想について学びました。  

医師になることを志していたたため、アメリカ赤十字からファースト・エイドのクラスを受講したこともありました。しかし、1941年12月7日、日本軍がオアフ島の空を埋め尽くした後に見たことに対して、心の準備ができていないことに気がつきました。  

ルナリロ・スクールのエイド・ステーションを手伝うことを求める赤十字の連絡により、イノウエ氏は真珠湾攻撃で被害を受けた民間人の手当てに従事することになりました。  

日本人の奇襲攻撃が、イノウエ氏の人生を大きく変えました。また、この攻撃により、アメリカ全土で日本人に対する人種差別が高まり、多人種で構成されているハワイ準州も例外ではありませんでした。日系アメリカ人がどんなに日本軍とドイツ軍と戦ったとして、犠牲を払ったとしても、日系人を卑下する人は存在するだろうとイノウエ氏は思いました。  

その時、日系二世は軍に入隊することを認められていなかったので、イノウエ氏はハワイ大学マノア校のプレメディカルコースに進学することにしました。  

1943年、フランクリン・ルーズベルト大統領が二世の従軍に同意。「アメリカ人の精神とは、マインドとハートの問題だ」と語りかけられたような気持ちだったとイノウエ氏は語っています。実際、ルーズベルト大統領は「アメリカ人とは、人種や祖先の問題ではない」と述べています。  

赤十字での経験があったため、イノウエ氏は陸軍への入隊はすぐに考慮してもらえませんでした。しかし、とても熱心に愛国心を示そうとしてエイド・ステーションを辞め、ハワイでは最後の選択肢だった第442連隊戦闘団に志願しました。  

メインランドでの基礎訓練を受けるためにハワイを発つ前に、父は短いアドバイスを与えています。

「家族に不名誉をもたらすな」

 

“GO FOR BROKE” 第442連隊の英雄

イノウエ氏は軍曹としてヨーロッパに派兵となり、イタリア、フランス、イタリアと転戦した後に、二世兵として最初に少尉に昇進しました。  

勇敢さで名を馳せた第442連隊のモットーは「GO FOR BROKE」。同じく日系人部隊である第100歩兵大隊と共に、アメリカ軍史上最も多くの勲章を受けた部隊となりました。  

イノウエ軍曹が右腕を失った戦闘について、「アメリカンズ:ストーリー・オブ・第442連隊戦闘団」には下記のように記されています。  

「イノウエは稜線を這い上がり、ドイツ軍の機関銃基地に2発の手榴弾を投げ入れた。そしてトムソン式軽機関銃を手に立ち上がり、腹部を撃たれる前にもう一つの機関銃基地に銃射を浴びせた。彼は敵の狙撃兵に右腕を打ち砕かれるまで、銃に弾丸を込め続けた。 」 

 

 

イノウエ軍曹はそれでも銃撃を続け、右足を撃たれて丘陵地に倒れるまで攻撃し続けました。この戦闘から数日後、イタリアでの戦闘は終結し、2週間後にドイツ軍は降伏したのです。  

イノウエ軍曹は少尉に昇進し、除隊になる前に大尉に昇進となりました。アメリカ軍最高位の名誉勲章の候補にもノミネートされましたが、この時は殊勲十字章、ブロンズスター章、パープルハート章などが授与されました。その後功績が見直され、名誉勲章への昇進を受けています。

 

政治の道へ

戦後ハワイの社会には目まぐるしい変化が生じます。日系人はハワイで3番目の人口を占め、二世の退役軍人たちは、自分たちが政治家としてのポテンシャルを秘めていることに気付きます。  

イノウエ氏はGIビルによりハワイ大学に進学。法律を学びながら、法廷ではなく政治を焦点に置いていました。この頃にハワイ大学のスピーチインストラクターで、コロンビア大学で修士号を取得していたマーガレット・シノブ・アワムラと出会い、2度目のデートで結婚を申し込みました。  

ハワイ大学を卒業すると、ジョージ・ワシントン大学のロースクールに進学。この大学はホワイトハウスからわずか数ブロックでした。  

夫婦でハワイに戻り、弁護士試験に合格すると、ホノルル市の検察官に任命されました。イノウエ氏はワシントンとハワイですでに民主党のボランティアを務めたことがあり、戦中から日系アメリカ人の権利のために尽力し、後にハワイ州知事となったジョン・A・バーンズに師事していました。1954年、ジョン・A・バーンズの勧めでハワイ準州の下院議員に立候補することになりました。

それまでハワイでは共和党が多数を占めていましたが、この頃から民主党へのシフトが始まります。後に国会上院議員となったスパーク・マツナガ氏や、ハワイ州知事となったジョージ・アリヨシ氏も台頭してきました。  

イノウエ氏は1958年にハワイ準州上院に選出。1959年にハワイはアメリカ50番目の州となります。その直後の特別選挙で、国会上院に出馬しようとしますが、結局国会下院に出馬し、アメリカ初の日系人下院議員となりました。  

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