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デジタル版・新聞

インタビュー

101歳、百寿インタビュー 畑惠美さん

「介護されている」と気付かせないで アルツハイマーを自然体で受け入れる、母と娘の今

日刊サンの編集部には日々、さまざまな情報が寄せられる。先だってはマノア日本語学校から、おめでたいニュースが届いた。

7月に101歳の誕生日を迎えた女性がいて、バースデイパーティを催して百寿を祝ったのだという。 世界一の長寿国、日本には百歳以上のCentenarianが6万人以上もいる。 あなたは自分が100歳になった時のことを想像できますか?

(日刊サン 2016. 8. 6 / 取材・文 奥山夏実)

 

百寿のお祝いに、日本国とハワイ州から表彰状が贈られた

百寿を迎えられた女性の名前は、畑惠美(エミ)さん。お祝いの取材をさせて欲しいと電話をすると、エミさんの次女のアケミさんが応対してくれた。

「先日、百寿のパーティをしました。メインランドに住む姉一家や親族、昔からの友人や近所の方が120人以上も集まって、とっても盛大、サクセスだった。日本国からもハワイ州からも、お祝いの表彰状をもらいました」

日系3世のアケミさんは英語育ちで、日本語は少したどたどしい。日本語と英語が混ぜこぜのインタビューが始まった。 

まず、エミさんを新聞で紹介するために、写真を撮らせて欲しい。その時エミさんに習字で、百寿を祝うサインもしてもらえないだろうかとお願いした。

「母は娘の頃、書道を習っていました。ハワイに来てからも筆で字を書いていたのを何度も見ました。もう何十年も書いていないけど、OKです。習字にチャレンジしてもらいましょう!」と、快諾してくれた。

ところで長寿をことほぐ、百寿という言い表しをご存知だろうか。“ひゃくじゅ”とも“ももじゅ”とも読み、日本には、90歳を卒寿、99歳を白寿、そして100歳を百寿と呼んで祝福する習慣がある。 卒寿の卒を略字で書くと卆で、九の下に十の成り立ちだから90歳。白寿の白は、百より一画少ないから99歳と、洒落っ気たっぷりのネーミング。100歳は一世紀生きたことだから紀寿ともいう。

また現代のように、生まれた年が0歳から始まる満年齢では、満100歳が百寿だけれど、生まれた年を1歳と数える、数え年の年齢では101歳が百寿。エミさんは昔ながらの数え年で百寿を祝われたことになる。

さっそく習字道具を持ってエミさんのマノアの自宅を訪ねた。芝生が広がる庭の奥にどっしりとした母屋、その裏にアケミさん家族が暮らす別棟がある。

戦後しばらくしてから購入した家。 エミさんはここで70年近く暮らしている。

 

「母は広島の呉で1915年に生まれました。母の父は地主で、畑を小作に貸していた。でも明治になってネイビーが呉に軍港を作ったから急に開けて、農地も住宅地に変わっていったそうです」

エミさんは何人兄妹ですか。

「お母さんは6男6女よね?」 アケミさんが母に訊ねると、

「そうですよ、6男、6女」

と、ニコニコ。はじめましてと、エミさんにごあいさつ。

「母は12人兄妹の一番末っ子です。本当は母の下にもう一人女の子がいたけど、小さい頃に亡くなってしまった」

「そうですよ、12人兄妹」

はっきりとした声でエミさんは答え、何度も12人兄妹とくり返した。 姉たちも長寿で、エミさんのすぐ上の姉は、106歳の長命を全うしたという。

エミさんの百寿パーティで2人の娘と。アケミさん(左)ナオミさん(右)

 

夫の両親は明治初期、ヒロに移民
太平洋戦争では資産を全て失って

「この、母の娘時代の写真、父とお見合いをした頃のじゃないかな。メインランドに住む姉が大きく引きのばしてメッセージを入れたパネルにして、101歳のパーティの時に母にプレゼントしました。」

エミさん、美人さんですね。

「若い頃はね」 大笑い。

娘時代のエミさん。この頃、見合いをしてハワイへ。

 

エミさんの夫の名は、畑タモツさん。花嫁より10歳年上だった。

「父方の両親は広島出身で、1800年代の終わり、明治時代にハワイ島のヒロに移民しました。ヒロで“ハタ商店”というゼネラルストア、なんでも屋をやっていて、成功しました。オアフ島に引っ越して、ホノルルのマウナケアストリートで大きな商店を営んで。祖父の弟にものれん分けして、現在でもひ孫がソルトレイクで“Yハタ”という食料品店をしています」

エミさんの夫となるタモツさんも、ホノルルで“Sハタ”という貿易商をしていた。Sはタモツさんの父、サダノスケさんのイニシャル。結束の固い家族だった。

「メインランドや日本からアロハプリントなどの生地を輸入して、とても人気があったそうです」

しかし太平洋戦争勃発とともにタモツさんはハワイに居づらくなり、母と共に広島に帰郷。原爆投下で、タモツさんは被爆体験もしている。

「祖父は戦前に亡くなりましたが、父と一緒に広島に帰った祖母も被爆しました。そして終戦後、日本人であった祖父のハワイの土地は、アメリカ政府に没収されてしまったのです」

でも、ハワイ生まれでアメリカ国籍を持つタモツさんは、なんとか資産を守ることができた。

そして戦後、エミさんはタモツさんに見初められて結婚。異国のハワイに嫁いできた。

エミさんのベッドサイドに いつも飾られている、 夫タモツさんの写真。

 

タモツさんの第一印象はどんな感じでしたか?

「どうだったかねえ」

ハワイに来るのは不安ではなかったですか?

「さあ、昔のことは全部忘れてしまったからねえ」

家族と離れるのは寂しくなかったですか?

「さあねえ」

事前に聞いていなかったためにハッとした。エミさんは認知症なんだ。

だったら少し話題を変えてみよう。私は習字道具を取り出して、エミさんの前に置いた。

エミさん、お習字で101歳のお祝いを書いてくれませんか。

「私が101歳なの?」

はい、おめでとうございます。

「まあ101歳」

はい、それをお習字で。

「習字はもうずっとしていませんよ」

嫌ですか? 

「嫌じゃないけど、そうねえ、やってみましょうか」

興味を持ってくれた。墨汁をプラスチックの容器にドボドボと出すと、 「硯は使わないの?」

ニヤリ。太い筆で大きな字を書いてもらおうとすると、

「私はそんな太いのは使えない、いつも細い筆でしか書きません」

と、きっぱり。

「あれ、置くものは?」

あ、すみません、文鎮を忘れました。コースターで代用させてください。

「じゃあ2枚置かなきゃ。なんて書きますか?」

祝、百一歳と。お名前のサインもお願いします。

エミさん、墨をつけて筆を持ったまま止まってしまった。字が思い出せないのかな。急いで取材ノートに“祝 百一歳”と書いて脇に置いた。

エミさん、漢字を見ておもむろに書き出す。筆先を半紙に優しく置き、トメやハネにメリハリを入れながら書きはじめた。

半世紀以上昔にたしなんでいた書道の腕前は健在

 

小ぶりながら、明らかに書道のたしなみのある筆の運び。書き順を少し迷ったけれど、バランスよくまとめた。

「お母さん、上手ねー」

アケミさんが褒めても無言。

百一とまで書くと、“歳”という字を見つめたまま、また筆が止まる。しまった、画数が多すぎるのだ。あわてて見本を、簡単な“才”の字に直した。

エミさん、こちらの才の方が書きやすいですよ。エミさん無言。そしてもとの難しい方の歳の字をゆっくり書き出した。

形はわかる。ただ文字としては忘れてしまった。だから書き順はスルーして、絵を描くように形を再現していく。

厂(ガンダレ)の中も、ていねいに模写する。

「母は昔からとても手先が器用でした。料理も上手で、ばらちらし寿司が得意で。人参や玉子の千切りもパーフェクト。シュークリームも手作りだったし、ローカルのラウラウやハウピアもよく作ってくれました」

エミさん、得意料理は何ですか。

「そうねえ、ばらちらし」

即答。やっぱり! 

じゃあ、好きな食べ物は?

「うなぎ丼、鯛茶漬け、スペアリブも好き」

食いしん坊ですね。

「母は茶道も長くしていました。ワイキキのブレイカーズホテルの茶室で、毎週裏千家の茶会があります。5年前までそのボランティアに毎週行っていました」

しっかりと「祝 百一歳」としたためた

 

母は弱音を吐かない人。でも、父の死後1年たって号泣して

「母はいつも前向きだから、見知らぬハワイに来ても不平を言わず、明るく過ごしていました。ものすごくポジティブ。周りの人は、母のことをスノッブとも言いますけど。いつも自分らしく、日本人としてのプライドを持って生きてきた、強い人です」

「父は私が17歳の時、ガンで亡くなりました。69歳です。母は59歳。日本の病院で治療を受けていたので、母も付き添って、日本で亡くなりました。母はハワイに戻ってきても泣いたりせず、普通に過ごしているように見えた。でも1年ほどして父の友人から、お悔やみの手紙が来て、それを読み出したらものすごく泣いて。ずっとクライング。母があんなに泣いたのは初めて見ました」

エミさんのプライドからすると、この習字も満足できるものではないと、アケミさんはいう。

「母はこのお習字の出来に不服そう。昔みたいにうまく書けなかったので、なんか違うと思っているんじゃないかな」

嫌な思いをさせてしまったのでしょうか?

「いえ、刺激にはなっているのでグッジョブ。母は今、デイプログラムに通っているんです」

日系人向けの施設だが、スタッフはそれほど日本語が話せるわけではないので、エミさんも英語と日本語でコミュニケーションしているのだそう。

「そこでカードを手作りするのですが、母はスタッフに指図されるのが嫌いで、ぜんぶ自分で折り紙を切ったり、絵を描いたり、好きな色を選んでしまう。それがとてもセンスがいいんです。ほら」

エミさんお手製のカードたち。クール!

 

引き出しにしまってあるカードを取り出して見せてくれた。ほんと、色使いもレイアウトも素敵! 細やかな手仕事ですね。

「でも母は満足していないんです。子どもだましなお絵描きとか、折り紙をやらされているような気分になるみたい。だからカードができても、破っちゃったりします」

持ち帰ろうともしないから、アケミさんが黙ってキープしている。 「デイでのランチも口に合わないらしくて、あまり食べないんです。スタッフが心配してくれますが、私は、家ではよく食べているので大丈夫です、本人の自由にしてくださいと話します」

 

エミさんに、アルツハイマーの症状が出たのは6年前のこと

100歳の詩人として人気を博した柴田トヨさんの作品に、こんな詩がある。

 

『先生に』

 

私を おばあちゃんと 呼ばないで

「今日は何曜日?」

「9+9は幾つ?」

そんなバカな質問も しないでほしい

「柴田さん 西条八十の詩は 好きですか?

小泉内閣を どう思いますか?」

こんな質問なら うれしいわ

 

エミさんにアルツハイマーの症状が出たのはいつ頃ですか。

「6年前からです。私はずっとメインランドでソーシャルワーカーとして働いていました。老人ホームやホスピスが職場でした。でも母が90歳になった時、ハワイで一人暮らしをさせるのは心配だったので、私たち一家がハワイに越してきたのです」

よく決心しましたね。

「父が亡くなる直前に、姉と私に言いました。二人が幸せになるように祈っているよ。だけどお母さんのことも見てあげてねって。 オフコース! ってその時は答えたけれど、母が歳をとって、ああ、父はこの時のことを思って私たちに言ったんだなって。私はお父さん子だったから、お父さんの遺言は守りたい。それに父は今も見ていてくれると思うから、裏切りたくない」

アケミさんのご家族も理解してくれましたか。

「夫はカソリックだから、とても愛があります。自分の両親も大切に看取ったので、よく理解してサポートしてくれます。息子は今、メインランドの兵学校に行っていますが、ハワイにいる時はおばあちゃんの世話をよく手伝わせます」

エミさんも喜びますね。

「ノー、母は私が結婚する時に反対したんですよ。フィリピーノと結婚するのって。孫や小さな子へも自分からベタベタ可愛がったりはしません。ドライなの。でも夫や孫が優しいから、今はとても仲がいい」

アケミさん一家がハワイに戻ってきて数年後、アケミさんは広島にあった父のお墓をハワイに移した。

「父が亡くなってから毎年、母は広島に墓参りに行っていましたが、90歳を過ぎてからはだんだん無理になって。それでカネオヘにある平等院に、父の遺骨を移しました。ヒロにあった畑一族の墓も移して、父の横に作り直しました」

ファミリーツリーを大切に守れるように。

アルツハイマーであっても自然体で接する

 

アルツハイマーを、特別な病気とは思わずに

エミさんは今、どんな風に暮らしていますか?

「アルツハイマーだとわかって、私もたくさんの専門書を読みました。施設に入れずにできるだけこの家で暮らしてほしい。70年間暮らしてきた、母の慣れ親しんだ我が家だから。なので私たち家族は、母のダイニングで食事をします。夜は私だけ、母の隣のベッドルームで寝ます」

週に4日は夕方までデイプログラムで過ごす。

「おしゃれな人なので、月曜日は美容院で髪をセットしてもらいます。前は週2回、YWCAのスイミングエクササイズに通っていましたが、ちょっともうプールは危険になってきたので、今は週1回のジムに切り替えました。トレーナーに母のメニューを作ってもらって、バランストレーニングや筋トレ、自転車などをしています」

週1回、ジムで筋トレ、バイクも漕ぐ

 

それでも階段の上り下りは危険だから、自宅ではスロープのある裏口から出入りをするようにしている。庭の草花の手入れも好きで、仏壇に花を供えるのも日課だったけれど、一人で庭に出て、道路の方まで歩いて行ったら危ないので、これも注意している。

アケミさんはエミさんのちょっとした変化も見逃さず、さりげなく暮らし方を変えて、母の安全を守っている。

「夜中にたまに起きて、出かけようとすることがあるけれど、お母さん、今はまだ暗いから、明るくなってから出かけようね、と言います。出かけちゃダメとは言わない。否定はしないようにしています。同じことを何度も聞いても責めない」

言ったことを忘れてしまうのは、本人が一番不安なのだから。

「ご飯を食べたことを忘れてしまうので、ご飯は?って何度も聞きますが、さっき食べたので、あとでデザートを食べましょうねって」

不機嫌になる時には、ああ寂しくて不安なんだなあと思って、そばに座って一緒にテレビを見る。

「メインランドにいる姉も毎日夕方に必ず、母に電話をしてきます」

アルツハイマーを必要以上に特別な病気と考えずに、年齢とともにハンディキャップが増えただけ、と受け止めるようにしている。

「私が長時間出かけたい時には、ヘルパーを頼むこともあります。友人のヘルパーなのでお金もそんなに高くない。母には、母のサポートをしてくれる人とはいわず、私のことをヘルプしてくれる人って紹介しています」

介護されていることを感じさせないように。エミさんのプライドをさりげなく守ってあげられるように。

「どうなっても、お母さんは大切なお母さんなんだから。もっと長生きしてほしいです」

エミさん、アケミさん、百寿の次は108歳の茶寿が待っていますよ!

使い慣れた安楽椅子に座って、気ままにテレビを見るのも日常

 

 

後記:  

できあがった原稿を確認するために、アケミさんに英語のメッセージを添えて、日本語の原稿をメールした。すると、英語の返信で、“私は日本語が読めないので、母が原稿を全部、始めから終わりまで読んで聞かせてくれました。母の日本語を読む力は健在です!”と、うれしい返信が寄せられた。  

現在、日本では460万人の人々が認知症を抱えて暮らしている。世界中では4400万人以上と言われ、人口の高齢化に伴い、2030年には6770万人、2050年には1億1540万人の人が認知症に罹ると予測されている。  

認知症は誰でもなりうる、世界的な健康問題だ。認知症を他人事としてとらえずに、自分事として考えたい。そして家族や友人知人に認知症の人がいたら、手を差しのべたい。私にできる事は何か? 私なら何をどうしてもらいたいか、自問しつつ。

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