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デジタル版・新聞

インタビュー

【インタビュー輝く人】新風義塾塾長 チャコ 瀬戸山 さん / トロント日系文化会館 松本 ジェームス 眞一郎 さん

敵対関係から仕事と人生の 最高のパートナーになった2人

偶然にも1970年の大阪万博がきっかけでカナダへ移住したチャコ瀬戸山さんとジェームス松本さん。それぞれが経済的に厳しい生活を送り、カナダ建国とゆかりの深い毛皮業界で働いたことで出逢い、競合相手として戦う。1年後にはパートナーとして会社を設立。バブル絶頂期にビジネスを大成功させ、2012年に引退。現在は、新日本ルネサンス運動を提唱し、日本のために世界をつなげる活動をする、輝く2人。

インタビュアー:大沢 陽子

チャコさん

自分の中の危機からの脱出でカナダへ

私は一人っ子で、家を継ぐ立場の惣領娘でした。親や親戚の愛情を一身に受け、周りが注目する中で育ちました。自分の中では強い反発心があるけれど、それを出せずに、親が描いている優等生でなくてはならなかったのです。いつか爆発するときが来るのではないか、そのときにはみんなに迷惑をかけることになるかもしれないと思っていて、自分自身が爆発物のような感じがしていました。

 

 大学を卒業して大阪万博でコンパニオンをしたのが1970年。そのときは、もうこれ以上は親から離れているわけにはいかない、帰る以外にないというタイミングでした。その先は、お見合いがあって、そこでお婿さんが来るということが見えていました。みんなが「めでたいね」と言ってくれて家から脱出する方法はないかと思っていたときに、出逢ったのが前の夫です。 カナダへの留学が決まっていた彼の「結婚して海外に行きましょう」という言葉に乗る以外に手段はないと思いました。そうしなければ「あなた誰?何する人」と言われても、誰でもない人間で生きていくことになる。それは恐ろしい人生だと思っていたのです。そんな動機で結婚するものではないですし、申し訳ないと思いましたが「人生では何かのきっかけが必要な人もいるのだ」と自分に言い聞かせたのです。

 

 1971年にカナダのトロントへ移住しました。お金はない、ちゃんとした住む家もない、周りに信頼する友人も親戚もいない状態でした。コーヒーショップでアルバイトをしたのですが、英語もわからず、1日でクビになりました。1時間2ドルの仕事だったのですが、1日働いたあとに渡された金額が計算より少なかったのです。こういう場合はきちんと言わなければならないと思って伝えたら、25セントコインをこちらに投げられました。コロコロと転げたコインを見て「私はこれを拾うんだ」という気持ちになり、床に落ちたコインを握りしめて「Thank you…」と言って帰って来たのを覚えています。そういう惨めな思いはしたことがなかったのでショックでした。でも、そんなことは今から思うと全然辛くない。そういう経験があるということがおもしろいですよね。

 

 カナダでの生活は前しか見られず、毎日が一生懸命だったので、日本で恵まれていた環境の中でぼやっと悩んでいるよりも楽でした。全然大変とは思いませんでした。私は修業をしたくてカナダに来たと思えたからです。

 

 

嫌なことは自分ため

1972年からの3~4年間は家政婦の仕事をしていました。子どもが生まれたあとだったので、子どもを連れて、バスを乗り継いで片道1時間半をかけて通っていました。子どもは状況をわかるんです。仕事をしている間、静かに座って絵本を読んでいました。

 

 ある日トイレを掃除しているときに、ふと思ったのです。「私ってこれをするためにカナダに来たのかな」と。悲しくて思ったのではありません。トイレットボールを磨きながら「今、この作業こそが私が磨かれているときだ」と感じたのです。人によっていろいろな磨かれ方があると思います。アカデミックでインテリの人にとってはまた違った磨かれ方があるでしょう。私はアカデミックではなかったので、そういうふうに磨かれる必要があったのです。

 

 私の人生の鍵になってきたことは「嫌なことは自分の修行のため」と思って感謝して生きてきたことです。決してよいこととは思えない状況に対して「嫌だな」と怒りだけにしてしまうのとは全然磨かれ方が違ってきます。私は人一倍勝気だからこそ、そのままに置いておくと自分が腐ると思い、「この状況をいただき、ありがとうございます」と心で強く思うようにしていました。どういうシチュエーションのときにも感謝できるという習慣。それが一番大切なのです。

 

 

自活を目指して

1985年、日本にいる両親がこの先病気になったりしたとき、今の経済力では日本に帰れない。なんとか自立、自活しないといけないと思いました。自分で好きなものはなんだろうと考えると、「セールスだ」と感じたのです。家、宝石、毛皮が浮かびましたが、カナダは毛皮交易で知られていて、カナダといえば毛皮だったので、絶対毛皮だと決心しました。  当時は日本人にとって、ミンクなどの毛皮コートがひとつのステータスで、日本からカナダへの毛皮ツアーもはじまってきたときでした。

 

 早速、開店したばかりのブティックで働くことにしました。最初に「今日は日本のお客様がホテルに着くので迎えに行ってください」と言われ、何をするのかわからないままホテルへ行きました。  

 

そこで会ったのがジェームス松本です。

 

 

ジェームス松本さん

仕事はなんでもやろうと思った

1970年、当時イギリス人の女性とお付き合いをしていて、一緒に大阪万博に行ったところ、会場で「カナダに移住しませんか」というチラシをもらいました。それがきっかけで彼女と結婚して1971年にカナダに来ました。

 

 カナダに着いたとき、2人で615ドルしかありませんでした。住むところも、仕事もなく、知人もいない。ホテルに泊まったのですが、1週間でお金がなくなってきました。それから夫婦でシンプソンというデパートで働きました。初めて給料をもらったときにはすでに貯金はゼロ。1週間に80ドルという2人の給料でなんとか生活をしていました。仕事はなんでもやろうと思い、保険会社に勤めたり、レストランのマネージャーをしたり、夜中に会社や学校の掃除の仕事をしたり、1日に2~3つの仕事をしていました。

 

 働いていたレストランには日本の団体客がたくさん来て、「毛皮はどこで買えるのですか」とよく聞かれ、「連れて行ってください」と頼まれることもありました。そこで毛皮の店に案内して、お客さんが商品を買うと、店のオーナーがコミッションをくれたのです。それから、お客さんに「毛皮が欲しいようならお店に連れて行きますよ」とこちらからアプローチをするようになりました。レストランに来た団体客を毛皮の店に連れて行くうちに、そのコミッションがレストランのマネージャーの給料より多くなってしまいました。

 

 それで独立をしたのですが、今度はレストランという場所がない。そこで、お客さんが必ず来るホテルでお客さんを待つようになったら、宿敵となるチャコ瀬戸山がいたのです。

 

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