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インタビュー

【いま、歴史が動いた。総領事の見た景色】三澤 康 在ホノルル日本国総領事インタビュー

在ホノルル日本国総領事館
三澤 康 総領事
【プロフィール】みさわ やすし 

1962年京都府出身。85年京都大学法学部卒業後、外務省入省。2000年経済局国際機関第一課企画官、02年大臣官房総務課企画官、03年大臣官房総務課監察査察室長、04年アジア大洋州局大洋州課長、05年在カナダ日本国大使館参事官、08年経済局政策課長、09年内閣事務官・内閣官房内閣参事官(内閣官房副長官補付)、10年内閣官房沖縄連絡室兼内閣総務官室(内閣官房国家戦略室)、11年外務事務官・大臣官房情報通信課長、12年在ドイツ日本国大使館公使、14年大臣官房参事官兼中東アフリカ局アフリカ部、中東アフリカ局、今年7月在ホノルル日本国総領事館総領事に就任。

 

 

「外交」の目的は,国際社会の中で日本の安全と繁栄を確保し、国民の生命と財産を守ること。外交官に求められるのは、国のために尽くす情熱と使命感、それを支える知性や人間としてのタフさと誠実さ、そしてあくなき向上心。国家公務員試験の中でも最難関と言われる外交官試験。毎年多くの受験者の中から選ばれるのはエリート中のエリートだ。今年7月に在ホノルル日本国総領事館に赴任された三澤康総領事もその一人。  外務省に入省して30年以上。これまで50を超える国や地域での様々な出来事、時代を見てきた三澤康総領事。小さなころから歴史が好きで、外交官になってからは、まさに世界史が大きく塗り替わるその瞬間を目の当たりにすることも多かったという。多くのことを見てきたその瞳に初めて訪れるハワイという地は、どのように映るのだろうか?

 

世界をこの目で

高校・大学時代はハンドボール部での練習に明け暮れていましたね。大学受験の浪人中を除けば、お盆と正月などに短いオフがあるだけで、それ以外はハンドボール中心の毎日でした。大学時代は、その分、授業に出ないことも多かったですね(笑)。

昔から歴史や世界地理が好きでした。世界をこの目でみたい、外国に行って勉強したいという想いがあって、ハンドボールばかりやっていた毎日の中でもその想いは消えませんでした。新聞社のスカラシップや企業の奨学金などに応募して留学しようとも思ったのですが、部活への想いも強く、あきらめました。でも、進路を考える時にやっぱり、この想いが核となって、外務省を目指してみようかと考えたんです。それが2年生の夏。外務省を目指すと決めてからは、練習の合間によく図書館に行くようになりました。ゼミは、近現代史。1850年以降の日本や欧州の歴史を勉強しました。私が特にテーマとしていたのは、戦間期と呼ばれる第一次世界大戦から第二次世界大戦の間の混乱の20年。

 

当時の公務員試験では、外務省だけが外交官試験を行っていて、かなりの倍率がありました。京大からも多くの学生が受験したのですが、受かったのは私を含めて3名だけ。一次試験、二次試験に通り、面接に挑んだのですが、これまで力を入れてきたスポーツを通して育んできた協調性や持久力を評価されたのかなぁと思っています。

 

ベルリンの壁崩壊 世界史が大きく塗り 替わるその瞬間を目の当たりに

入省して2年目にドイツに行き、2年間の研修の後、1988年から1990年の1月まではウィーンでの勤務となりました。皆さんもご存じの通りその頃のヨーロッパは激動の時代。大変面白い時期でした。あの頃のウィーンは、国連の事務局を呼び込み、EC(欧州共同体)にも加盟申請したばかり。オーストリアが永世中立国であることもあって、東からのアクセスが良く、西側にとっては東欧の動きを探れるのに絶好の場所。東西のスパイが暗躍していました。例えば「ハンガリー動乱」や「プラハの春」によって東側から亡命した共産党の中でも改革派の人たちがウィーンに多く、ネットワークを持っている。そうした人たちからチェコやハンガリーの政治状況を聞いたり、オーストリアの外務省のコネクションから流れてきた情報などを日本に送る仕事をしていましたね。

 

ヨーロッパの地図を見ると分かるように、ウィーンというのはヨーロッパを東西に分けた時に東欧のハンガリーの方に突き出ていて、中部ヨーロッパの地政上で重要な場所だったんです。私がウィーンに赴任した1988年はまだ東西冷戦が続いていましたが、ポーランドやハンガリーでは民主化への動きが始まっていて、ハンガリーの国境線では鉄条網が撤去されるなどして国境線がゆるく、人の往来がしやすくなっていたんです。だからその頃のウィーン市内ではハンガリーとかポーランドの車をよくみかけましたね。でも国境を越えられるのは、ハンガリーやポーランドのパスポートを持っている人だけ。東ドイツの人々は、チェコやハンガリーなど東欧を旅することはできても、オーストリアの国境を超えることはできませんでした。ところが1989年の夏には、ハンガリー経由で西側へと脱出できるのではないかとの期待を抱いた東ドイツの人々が、夏のヴァカンスにかこつけてハンガリーに集結し、居座ります。一方、ハンガリーの民主化運動の活動家たちは、東ドイツの人々を何とかオーストリア経由で西ドイツに亡命させるべく、オーストリア側の支援者とともに、オーストリア国境付近においてピクニックを装った合同政治集会を企画します。民主化へと動き始めていたハンガリー政府内でも、首相を中心に、この動きを容認します。その結果、多くの東ドイツの人々が亡命に成功することになるんです。

 

これがベルリンの壁崩壊に繫がった「汎ヨーロッパ・ピクニック」で、1989年の8月のこと。その情報を聞いた次の週末頃に、私はウィーンから車でオーストリア国境付近まで乗り付けましたが、そこには赤十字が東ドイツから赤ちゃんを抱えて逃げてきた家族に紙おむつを提供したり、列車に乗せてミュンヘンに連れて行ったりということをしていました。それからはあっという間。11月にはベルリンの壁が崩れました。本当に劇的でした。私はすぐに上司に休暇をもらって、生まれて6カ月の子供と家内を連れて、ベルリンに壁を見に行きました。

 

最初の研修がドイツに決まり、必死にドイツ語を学んでいた時から、東西ドイツが統一される時には自分も外交官として何か関われるかなという想いがあったのですが、崩れた壁を眺めながらいきなり「あぁ、私の目指す仕事もこれで終わったかな」と感じましたね。その翌年の1月に私は日本に帰国しました。

 

ルーマニア革命、政権が揺れ動き、瞬く間に崩れていく

1989年には歴史が大きく動いた瞬間をもう一つ目撃しました。あの年、東欧革命によって東ヨーロッパの共産主義国が次々と崩壊する中、最後まで残っていたのがルーマニアでした。日本への帰国間際に、そのルーマニアへ出張に行くことになっていたのです。それが12月20日のこと。その直前の12月16日には民主化を求めてデモを行っていた市民に政府の治安部隊が発砲し、無差別大量虐殺があったばかり。政情不安定ということで、外交官でも拒否されるかもしれないと言われていたのですが、大使館から迎えがきてくれてなんとか入国することができました。

 

その翌日の12月21日が、共産党本部庁舎前広場に10万人の群衆を集めルーマニア大統領チャウシェスクが演説を行った運命の日です。演説中の爆破事件がきっかけとなって人々が蜂起し、軍も大統領に反旗を翻します。私の滞在していたホテルの部屋からは共産党本部が見え、翌22日には私の目の前でまさにチャウシェスク夫妻がヘリコプターに乗って逃げていきました。その後チャウシェスクの秘密警察と、革命軍とが各地で激しい銃撃戦を始めます。これが「ルーマニア革命」で、チャウシェスクの独裁政権、共産主義崩壊に繋がりました。事態が悪化する前に私はルーマニアから脱出。私がルーマニアに滞在していたのはたったの3日でしたが、政権が揺れ動き、あっという間に崩れていく。世の中は、こんな風に変わっていくんだというのを肌で感じた凄く印象的に残る経験でした。

 

インドネシア アジア通貨危機で物価がどんどん高くなる

東京に戻って勤務する中でも時代は動いていきました。当時はイラクのクエート侵攻によって湾岸戦争が勃発し、米軍協力の対外タスクフォースに携わったり、経済局勤務中には欧州でマーストリヒト条約がまとまりEUが設立に向けて動き始めていましたのでレポートをまとめたりしていました。5年間の東京勤務後の赴任先はインドネシア。それが1995年から1998年までの3年間です。赴任したばかりの年は、インドネシアの経済がとても好調で、ある種バブル状態でした。ところが、1997年には欧米のヘッジファンドの空売り攻勢によってタイでバーツが暴落。これをきっかけにアジア通貨危機が起こります。

 

インドネシアは、特に打撃を受けた国の一つで、インドネシアの通貨ルピアが日に日に下落していきました。そうなると輸入に頼っているインドネシアの経済はインフレになってしまう。また、農作物が不作だったことも災いしました。街で売られているもの、特にブランド品などはルピアで書かれた値段が、毎日何割か増えていくというような状況でした。しまいには値札がドルに変えられていましたね。人々の生活が厳しくなると政治に不満の矛先がいく。1998年の5月には30年以上続いていたスハルト政権が崩壊。歴史が大きく動く瞬間をまたもや生で体験するということになりました。

 

人の意思の力が世の中を変えていく

世の中が動いていくときというのは、人の意思の力が大きく働きます。ミクロな人々の動きが、マクロの大きな社会運動に繋がっていくのですが、その時国民がどう考えているのか、社会を動かそうとするほどのものなのかどうなのか、それを見ていくのが大事なんだととても勉強になりました。今も大きな激動の時代だと思います。世の中というのは、動く時には様々なことが連動してあっという間に物事が変わっていく。前兆というものが必ずあると思うのですが、それをつかむのが難しいですね。何かが起こってから分析して、後付けの説明はできますが、なかなかその動きを事前につかむのが難しい。歴史が大きく変わった瞬間に立ち会った時も、リスクがあるということを常に意識すべきだということを強く感じましたね。

 

大らかに全てを受け入れる寛容さがハワイ

これまで50カ国以上の国に出張してきましたが、ハワイにはこれまで一度も訪れたことはありませんでした。アメリカ関連の仕事があったとしても、ワシントンやニューヨーク。ハワイなんていう楽園は、夢のまた夢ですよ(笑)。 実際、ここにきて3カ月ほど経ちますが、とても快適ですね。ハワイにずっと住んでいる方は今年の夏は例年より湿度が高く暑いとおっしゃいますが、私の実家の京都に比べたら涼しいくらいです。 ハワイが快適なのは、人のあたたかさに理由がありますね。本当にみなさん優しい。エスニックマジョリティーがいなくて、みんながマイノリティーであることも要因の一つなのかもしれませんね。異文化を尊重し、みんな仲良く暮らそうという思いやりの心が随所に表れていると思います。それを象徴するような出来事が、8月6日にハワイの出雲大社で開催された原爆記念日の式典です。

 

まず出雲大社の神主さんが祝詞をあげ、それに続いてキリスト教の神父さん、ユダヤ教のラビがお祈りを捧げ、その後日蓮宗のお坊さんがお経をあげたのですが、彼はオペラ歌手でもあってアベマリアを歌うという(笑)。大らかに全てを受け入れる寛容さがハワイならではなのかなぁと思いました。 日本とアメリカ、そしてハワイとの関係性を考えた時に、日系アメリカ人の歴史や彼らが背負っているものをきちんと理解することがとても重要だと思います。ハワイに来てからできるだけいろんな人に会って話を聞いたり、本などを読んだりしていますが、まだまだ語れるほどではないですね。日本から安い労働力としてハワイに移民としてきた苦労だとか、日本の真珠湾攻撃が彼らの日本人としての、そしてアメリカ人としてのアイデンティティーにどう影響を与えたのかだとか、どの日系人の方に聞いても、皆さん一人ひとり結構ずっしりと重いストーリ―を持っていますね。それを忘れずに記録していくことがとても大事だと思っています。

 

総領事だからできる仕事

領事館はハワイにいる日本人の方々が安心して住めるようにサポートしていくところです。パスポートの再発行や申請、婚姻届の受理などの事務処理からはじまって、治安情報の提供、日本企業がスムーズにビジネスができるような環境づくり、日本文化を紹介し、文化的交流を深めたりと様々な業務を行っています。その中でも私は、日本政府を代表して、メッセージを送るのが主な仕事。必要であれば州知事にも会いに行きますし、日系人を含めて日本人、そして日系企業に対して、きちんとした対応や配慮をしてもらえるような環境づくりというのが、私がここにいる最大の理由です。ハワイは初めてですが、これまでの私の経験や知識は、最大限に生かしていきたいと思います。

 

日本の文化を紹介するだけでなく、ハワイの文化や歴史を学ぶのも楽しみですね。この間イゲ州知事にハワイらしい何かをやってみてくださいと言われたので、ウクレレに挑戦しようと思っています。12月のホノルルマラソンも走る予定です。ハワイという地・文化を理解することで、日本とハワイのより強固なパートナーシップ構築に貢献していけたらと思っています。

 

(日刊サン 2015. 11. 14)

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