鎮魂から復興へ…大和田新氏インタビュー Vol.4

 08/20/2017 : 730 Views

あみちゃん諒君が持ってきてくれた、手作りの表彰状 

 

今、福島から伝えることの大切さ

どんなに辛く悲しいことがあっても、泣き叫ぶことを卒業する日、そして亡くなった人の分も含めて、「よし、生きていこう」と決意する日を「卒哭忌」という、と教えられた。この日を境に、大和田さんは再び取材に立ち上がった。(写真は大和田氏提供)

 

(インタビュアー:松尾 實直/日刊サン2016年8月16日)

 

大和田新(あらた)

1955年3月28日生まれ。奥様、長男、長女の仲良し4人家族。元ラジオ福島アナウンサー、編成局長。現在はフリーアナウンサー。

著作:今年9月『大和田ノート 伝えることの大切さ、伝わることの素晴らしさ』を上梓の予定。

座右の銘:「明日できることは、今日しない」。今日できることは今日一生懸命、全力でやろうということ。「ハワイの人はのんびりしているし、あした? どうやって遊ぼうかな、なんて考るんじゃないですか。楽しいですね、毎日が! 『明日できることは、今日しない』は、ハワイの人にぴったりかも」と、冗談も。

 

『大和田ノート 伝えることの大切さ。伝わることの素晴らしさ』 大和田さんが今年9月に上梓の予定

 

―震災の悲しみの中でも、きっと心温まるお話はあったと思うのですが、大和田さんにとって嬉しかったことや感動したことはございますか?

 

大和田 あと2週間ハワイ講演が遅ければ、ここに私の本を持ってくることができたので、残念です。

この本を作るに当たっては、姫花ちゃんのご両親をはじめ津波で亡くなった子供さんや奥さんやご家族、遺族の皆さんが、遺族である自分たちの写真を使うことに関してひと言もクレームをつけることなく、好きなように使ってくれと言ってくださった。そのことが本当にうれしかったですね。  

出版するに当たって、50人近い人にひとりずつ「この時のこの写真を使っていいですか」と連絡を取らせていただいた。でもひとりも「考えさせてくれ」とか、「ダメだ」とか言わなかった。これが本当に嬉しかった。出版社もびっくりしていました。

 

―本のタイトルは何と付けられたのでしょうか。

 

大和田 『大和田ノート』と付けさせていただきました。  

私は震災後、ご遺体もいっぱい見ていますし、いろんな現場に行っています。でも、その中には放送でも言えない、文章にも書けない悲しみや苦しみをいっぱい私の中に抱えてきた。これを誰かに知ってもらって、苦しみ、悲しみを半減させていただこうと思ったのです。  

私はそれまで、車椅子の作家で非常に尊敬している大石邦子さんというエッセイストに、私が撮った写真を震災直後から毎日ガラケーで送っていたんです。私は数えていないのですが、大石さんが数えてくれると6000枚に上っている。それを大石さんがご自分のパソコンに「大和田ノート」というファイルを作って貯めていてくれたのです。  

それで私の本は「大和田ノート」というタイトルにしたのです。サブタイトルは、「伝えることの大切さ。伝わることの素晴らしさ」といたしました。  

これはあみちゃん、諒(りょう)君という震災当時は小学校6年生と4年生の姉と弟がいたのですね。福島原発が爆発して、お父さんは福島に残って、お母さんとあみちゃん諒君は埼玉県に避難したのです。でも3日目に諒君は、「ママ、福島に戻ろう」って言ったのです。お母さんは「えっ、どうして? 福島は原発が爆発して放射線量が高いから戻れないよ」と言ったのです。でも、諒君は「放射能より、お父さんと一緒にいたい。放射能よりもお父さんと一緒にいられないほうが辛いよ」。

 

家の前の国道を通る車すべてに手を振り続けたあみちゃん諒君

あみちゃん諒君は、福島県の広報誌の表紙にもなった

 

お母さんは子供たちのために埼玉に避難したのです。でも、子供のためになってなかった。放射線もストレスだけど、お父さんと一緒にいられないことのほうがもっと大きなストレスだったのです。  

お父さんに電話すると、お父さんも当然「放射線量が高いからダメだ」という。でもお母さんは、「あみと諒は本気なの、お父さんと一緒にいたい。私もそう。あなたと一緒にいたい。家から出ないから。約束だから」と説得した。  

あみちゃん、諒君の家は、福島と被災地を結ぶ真ん中あたりの国道に面しています。  

家に戻ったら、目の前の国道を毎日、何百台という自衛隊、警察、消防の復興車両が走っている。あみちゃん、諒君はびっくりするんです。今まで1日何十台しか通らなかった家の前の国道が、毎日何百台も、しかも自衛隊、警察、消防の車が走っているのですからね。  

あみちゃん諒君は二人で「よし、手を振ろうね」と相談して、朝1時間、帰りの夕方に1時間、家の前の国道を通る車すべてに手を振り続けたのです。朝は「いってらっしゃい! ありがとう!」。夕方は「お帰りなさい! ありがとう!」と手を振り続けた。  

 

最初は自衛隊も警察も、ちっちゃい子が毎日手を振っているな、とくらいにしか思わず、気にもしなかった。ところが、ある日からあみちゃん諒君は手書きの手作りのボードを両手にかざして出すようになった。そうしたら、自衛隊も警察、消防もあみちゃん諒君の前で停まるようになった。なぜなら、自衛隊も警察も沖縄や四国、北海道と全国の各地から来ているのです。その人たちが、自分の子供と同じくらいの年の子供が放射線が降っている中で両手を上げて、「いってらっしゃい」、「お帰りなさい」、「ありがとう!」と、毎日声を出して、ボードをかざしてくれている。うれしくなって、車を停めて抱きしめるのです。自分の子供と同じ位の子供が一生懸命自分たちにしてくれている。  

自衛隊も警察も毎日決して見たくない、手足のない目がつぶれたご遺体を見て、検視をしているのです。だけど、行き帰りにあそこを通ると子どもたちが手を振って「ありがとう」、「ありがとう」と一生懸命挨拶してくれている。あみちゃん諒君は、これを毎日、2年続けたのです。ただ、雨の日は放射線量が高くなるから、お母さんはダメと言ったのですが、手袋を2枚はめて、帽子をかぶってマスクをしてゴーグルをかけて、長靴を履いて、そして二人は手を振っていたのです。  

そのあみちゃん諒君が、手作りの表彰状をラジオ福島に持ってきてくれた。そこには、「表彰状。大和田新さん。伝えることの大切さ。伝わることの素晴らしさ」と書いてあった。この素晴らしい言葉をサブタイトルにさせていただきました。

 

(つづく)

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