鎮魂から復興へ…大和田新氏インタビュー Vol.2

 08/18/2017 : 592 Views

大和田新(あらた)

1955年3月28日生まれ。奥様、長男、長女の仲良し4人家族。元ラジオ福島アナウンサー、編成局長。現在はフリーアナウンサー。

著作:今年9月『大和田ノート 伝えることの大切さ、伝わることの素晴らしさ』を上梓の予定。

座右の銘:「明日できることは、今日しない」。今日できることは今日一生懸命、全力でやろうということ。「ハワイの人はのんびりしているし、あした? どうやって遊ぼうかな、なんて考るんじゃないですか。楽しいですね、毎日が! 『明日できることは、今日しない』は、ハワイの人にぴったりかも」と、冗談も。

 

今、福島から伝えることの大切さ

東北大震災の日からラジオ福島は、「頑張ろう福島、頑張ろう東北、頑張ろう日本」キャンペーンを張った。だが、視聴者から「何が頑張ろうだ!」、現場を知っているのか!」とのお叱りを受けた。この叱責が、大和田さんを放射線の高い現場に向かわせていく。(写真は大和田氏提供)

 

(インタビュアー:松尾 實直/日刊サン2016年8月16日)

 

 

何が「頑張ろう福島」、 「頑張ろう東北」なんだ!

―大震災を経験され、改めて震災報道はどうあるべきか、放送局の課題、あるいはご自分の報道に対する課題をどのように考えられましたか?

 

大和田 震災当時、私たちは、コマーシャルを一切はさまず、「頑張ろう福島」、「頑張ろう東北」、「頑張ろう日本」をテーマに放送していました。しかし、震災の翌月の4月2日。私のラジオを聞いてくださっている福島の方から「大和田さんに」という宛名でファックスが送られてきた。この人はファックスで、私たちに強烈な怒りをぶつけてきたのです。 「何が『頑張ろう福島』、『頑張ろう東北』なんだ! ラジオを聴いていると腹が立つ」と。  

この方が仕事の関係で沿岸部に行くと、そこには竹の棒一本でガレキを突つき、ガレキの下を覗いて回っているおじいさんがいた。「何をしているのですか?」と問うと、「娘を探している」という。娘さんは老人施設に勤めていて、施設に向かう途中、自転車に乗っているところを目撃されている。でもその後、老人施設は流された。施設のお年寄りたちは遺体で見つかった。だが、娘さんが見つからない。そのおじいちゃんは竹の棒一本で、ガレキの間をほじくり返して娘さんを探していたのです。  

リスナーのその方は、「大和田さん、あなたは放送で偉そうなことを繰り返し言っているが、本当に現場を見ているのか。一体、何が『頑張ろう福島』『頑張ろう東北』『頑張ろう日本』なんです! あのおじいさんは何を頑張ればいいんですか! 答えてください。その帰り道、ラジオからまた『頑張ろう福島』と流れてきた。この時はもう悲しくて、悲しくて、むかついて、ラジオのスイッチを思い切り切りました」。ファックスにはこうしたためられていたのです。  

当時、私には現場に行けない理由があった。編成局長として原発が爆発したあとの高い線量の放射線の沿岸部には部下を出せなかった。私たちはわずか60人の小さな会社で、それでもみんな寝食を忘れて必死で働いていたのです。  

私に強烈な衝撃を与えてくれたこのファックスは、今も大切に残しています。  

どうすればリスナーの気持に本当に寄り添えるのか。考え抜いた。  

報道は現場に宿る。この基本に立ち返り、社長に「放射線量が極度に高いので社員は出せない。しかし、私自身が週1回現場に出て、生の現場を取材したい。この間、局長としての私はいなくなる。その間は報道部長に任せたい」と、申し出て許可をもらった。そして私の現場歩きが始まりました。

 

小4の姫花ちゃんの遺影の前には、高1の参考書。あの時、姫花と一緒に死んだほうが カッコ良かった!

被災現場を歩いていて出会ったのが姫花(ひめか)ちゃんのお父さん、貴(たかし)さんでした。当初、貴さんはかたくなに取材を拒否された。何度も何度も通った末、やがて胸襟を開いてくれた。  

絵の好きな鈴木姫花ちゃん10歳、小学校4年生。年間20万人が訪れる観光名所でもあるいわき市の塩屋崎灯台に小3で遠足に行ったとき、この灯台の絵を描いた。

姫花ちゃんのハンカチ 

 

灯台の一番高い回廊には7人の子供が景色を見下ろし、灯台に登る道には3人の友人たちがいる。空は黄色で、真っ赤な太陽の中に一羽の白いかもめが描かれている。  

精神科医はこの絵を2つのことで絶賛する。ひとつは、小3では空を黄色に描けない。真っ赤な太陽の中の白いカモメも生きる喜びを表している。ふたつ目は、人の多さが描けている。灯台の屋上回廊には海に向かって子供たちが描かれているが、直接描かれていないその向こう側にも、さらには描かれていない階段の下にもたくさんの子供たちがいることを表している。愛情をたくさんもらった子供にしか描けない絵だという。  

姫花ちゃんは、この絵を描いた翌年の2011年3月11日に大好きなおばあちゃんの家で、おばあちゃんと共に津波で亡くなった。  

父親の貴さんは、津波から一週間後に警察から連絡があって、姫花ちゃんと遺体安置所で対面した。貴さんはぽつりと言う。「オレ、世界一カッコ悪い親父だな」。「あの時死んだほうがカッコ良かった」。  

お父さんの貴さんはこの絵をハンチカチにして、今、皆に配っている。「姫花の生きたあかしがここに残っている」、と。  

貴さんは震災から2年後に高台に家を建てた。この2階に小4のときには学年で1番の成績だった姫花ちゃんの部屋を作った。姫花ちゃんが生きていたならいま、高校1年。姫花ちゃんの部屋の中で大切に祀られた姫花ちゃんの遺影の前に、「姫花ちゃん、勉強してね」と高校1年の学習参考書が供えられている。  

マスコミは、3月11日になると2年目の節目、3年目の節目と、必ず「節目」という言葉を使う。だが被災者に「節目」はない。被災者にとって、ましてや未だ行方不明になって、遺体も見つからないご遺族の方にとっては毎日が3月11日なのです。

在りし日の姫花ちゃん

 

(つづく)


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