落語立川流・真打ち 立川談慶 独占インタビュー

 11/12/2018 : 329 Views

去る10月17日、落語家・立川談慶さんの初ハワイ独演会が開催されたことは記憶に新しい。会場となったワイキキDFSオハナ・ラウンジには、落語立川流を堪能しようと多くの在住者やメディアが来場し、大盛況のうちに幕を閉じた。既に第2回目の開催の話が持ち上がっているという。落語家として特異な経歴を持つ談慶さんは、1965年、長野県上田市生まれ。本名・青木幸二。駿台甲府高校から慶應大学経済学部に入学し、卒業後は大手衣料品メーカー、株式会社ワコールに入社。3年間のサラリーマン生活を経た後、立川流に正式入門し、天才落語家と言われた故・立川談志に師事した。その9年半にも及ぶ前座時代の経験などを綴った著作も多数出版している。今回は、そんな談慶さんの子ども時代から真打ちになるまでのエピソードや、師匠だった談志さんの逸話、今回初めて訪れたハワイの印象などについて伺った。   (聞き手・佐藤友紀)

 

小学校の文集に「落語家になりたい」と書いた

―― 談慶さんは、子供の頃から落語家になりたいと思っていたのですか?

談慶:小学校2年生の時の文集に「落語家になりたい」って書いたんですよ。落語家がどういうものかも知らないくせに、そう書きました。林家三平師匠、今の三平さんのお父さんですが、彼が賑やかに観客を笑わせている場面をテレビで観たんです。一人の人が多くの人を笑わせているという状況に、扇の要のような構図を感じたんです。一人の人が多くの人々を幸せにする落語家という職業に憧れを持ったんですね。ときめきを覚えました。

 

「お客さんなし」のレコードを聴いて 落語への興味が薄れた

―― ご両親は、それをご存知だったのでしょうか。

談慶:知っていました。それで、落語のレコードを買い与えてくれました。でもそのレコードは「お客さんなし」の落語で、ライブ盤じゃなかったんです。演者の言葉が単に記録されているものだったんですね。だから、正直そこで「全然面白くないなぁ」と思ってしまって。やっぱり、人間というのは共感が大事なんですよね。一緒に笑う人がいたら面白く感じるし、大して面白くなくても笑っちゃうものなんですよ。それで、そのライブ盤じゃないレコードで、逆に落語への興味が薄れてしまったんです。

 

漫才ブームからの影響

―― 中学時代、テレビ局で働くことに興味を覚えたと伺いましたが。

談慶:自分は昭和40年生まれなんですが、中3の時に漫才ブームというのがあったんです。ビートたけしさんとか島田紳助さんとか、その辺りの方たちがグンと上がった時だったんですね。それで、テレビでは漫才ばかりやっていました。その時、ああいうお笑いの方たちと一緒に仕事をしたいと思って。それにはテレビ局に入ればいいんじゃないかと思ったんです。テレビ局のようなマスコミへの就職に強い大学といえば、早稲田と慶応。それで、勉強しなきゃいけないなと。「田舎の進学校に行ってちゃダメだな」と思って、東京の東大合格率が高いような高校を狙わないと自分の活路は見いだせない、という思いに駆られて、開成高校を受けたんですよ。受験のジの字も知らないくせに、そこに行けば東大が近くなると思ったんですね。

 

文化祭でお笑いショーを開催 人を笑わせる喜びに目覚めた高校時代

―― 駿台甲府高校時代のエピソードをお聞かせください。

談慶:結局、開成高校はダメで地元の進学校に行ったんですけど、やっぱりしっくり来なくて。そんな時、クラスメイトから「新設校の駿台甲府高校というところが編入試験で二期生を募集してる」という話を聞いたんです。そこは高校3年間のカリキュラムを2年で終わらせて、残り1年間は予備校のテキストに切り替えて、受験体制に入るという高校だったんです。「ここなら俺の未来が開けるな」と思って、編入試験を受けて入りました。駿台甲府高校受験をクリアしたすごい人たちがいる中で、大学を受ければいいと思っていたんですね。それと、高校の文化祭で、アトラクションの一環として、身近なお笑いという感じで「青木幸二ショー」というのをやったんです。そこでダイレクトに人を笑わせる喜びに目覚めて、「こういう世界もいいかもな」と思ったんですね。でも、落語にはまだ距離がありました。その後東大を受験したんですが、入れませんでした

 

慶応大学では落語研究会に所属

――  小学生のころに落語への興味が薄れてしまったものの、大学で落研に入ろうと思った理由は何だったのでしょうか。

談慶:それで慶応大学に入ったんですけど、そこでもお笑いをやってみたいと思っていて。お笑いをやるにあたって、そういうサークルに入ろうと思ったんですが、慶応には落語研究会しかなかったんです。しょうがないから、落研に入るつもりはなかったんですけど、入りました。それまで落語は古臭いものだと思っていたんですね。それに子どもの頃、ライブ版じゃないレコードを聞いちゃったもので、面白くないものというイメージで入ったんです。

 

 

先輩から渡された一本のテープで、 後の師匠となる立川談志の落語に出逢う

――  それから落語に興味が戻ってきたと。

談慶:落研に入って最初に、立川談志の『らくだ』という落語のテープを先輩から渡されたんですね。お客さんの笑い声もビンビンに入ってるものでした。『らくだ』って、すごい落語なんですよ。人間の喜怒哀楽が全部入ってる。それで、一発でときめいちゃったんです。遠回りしたんですね。小学校2年の時に落語家になりたいとは言ったけれど、落語が何なのかも知らなかった。ただ、一人の人間が大勢の人を笑わせてる、その図式に憧れて漠然と落語への思いを持っていました。それで、大学に入って初めて「落語ってのはすごいもんだ」と思ったんです。そして、立川談志という人がすごい落語家だということが分かって。その人が(当時から)20年前くらいに出した『現代落語論』という本があるというので読んでみたら「ああ、これはもう、この人しかいないんじゃないかな」と。遠回りして、やっと運命の人と出会ったみたいな感じでした。

 

バブル華やかなりし1988年、ワコールに入社

――  大学卒業後は大手衣料品メーカーのワコールに入社されています。テレビ局への入社志望からワコール入社へ変わった経緯をお聞かせください。

談慶:大学を出たらテレビ局に入って、お笑いのトップスターたちと番組を作りたいと思っていたんですけど、大学では本当に勉強してなくて。テレビ局に入るような知識も才能もなかったんですね。思いはあったんですけど、空回りしていました。テレビ東京の最終面接には残ったんですけど、結局それもダメで。そうなると「どこでもいい」というとおかしいですけど、それまで自分が積み上げてきたものや才能まで全部を評価して、採用してくれたのがワコールだけだったんですよ。昭和63年入社ですから、バブルが華やかなりし頃で。まだこの景気は続くだろうなとは思ったんですが、(景気が悪くなった場合を考えると)女性の身の回りのものを作っている会社は不況に強いという感じがあったから、じゃあワコールにしようと思ったんです。お札の数勘定してるよりも、ブラジャーを数えてる方がいいかもな、と思いまして(笑)。

 

 

入社後は福岡支社に配属。 ハードな日々を送る中「談志の落語」に救われた

――  福岡支社では営業を担当していたと伺いました。その頃は、どんな生活を送っていたのですか。

談慶:福岡に行った後も、まだ落語家になりたいなって思いがモヤモヤしていたんですよ。でも、時はまさにバブル真っ盛りですよね。右肩上がりです。前年比10%増が当たり前みたいな風に、ノルマを出されるわけです。そんな中でセールスマンとして予算を抱えたりして、結構ハードな日々を送っていて。でも談志の落語で、また救われたんですよ。落語は人間の業の肯定なんです。人間って元々ダメなもんなんだ、っていう。眠くなれば寝ちまうし、飲みたくなれば飲んじまうしね。師匠談志の名言で「酒が人間をダメにするんじゃなくて、人間は元々ダメだということを、酒が教えてくれてるだけなんだ」というのがあるんです。これが、ズシンと響いて。「ああ、いいなぁ」と。宗教的ですよね。救いを求めるようにして、談志の落語をもう一回聴いてみようと。そう思ったんです。

 

有給を取って談志さんの福岡独演会へ。 「やっぱり落語家になりたい」と思うように

――  それで、談志さんの落語のよさを再認識したと。

談慶:そうやって談志の落語を繰り返し聴いているうちに、今度は生で聴き始めちゃって。師匠談志は福岡でも定期的に独演会をやっていたので、その日は会社から有給取って。朝から「談志を聴くんだ」という感じで行くわけです。独演会に行き始めて4回目か5回目の時に「ああ、俺は落語家になりたがってるな」と気付いたんです。それで夜、夢の中で、小学校2年生の時の自分が出て来て。囁くんです、耳元で。「お前、何やってるんだよ。僕は落語家になりたかったのに。サラリーマンになりたかったんじゃない」って。そうして昔の自分と会話をしているうちに「こいつの夢を叶えてやれるのは、俺しかいないな」と思うようになって。じゃあ、会社、やめちまおうかなと。それで、師匠談志にそれを言ったら「来たきゃ来い」みたいな感じで。あの人はぶっきらぼうですから、それしか言われなかった(※談慶さんは当時、後述の「立川流Cコース」にいた)。

 

いきなり、お笑いオーディション番組に出演

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