【インタビュー 輝く人】ハワイアンミュージシャン / ウクレレ講師 岡田 央さん

 09/25/2017 : 227 Views

2005年に初出場したマウイ島での「ファルセットコンテスト」でまさかの優勝を果たした岡田さん。「作者の気持ちを伝えることが音楽」と、歌詞を理解するために作者に会いに出かけ、その曲が作られた土地に足を運ぶ。演奏をすることでたくさんの人に喜んでもらえるのが何よりも嬉しいという。200回以上の行き来をしているハワイに教えてもらったすべてを音楽を通して伝えるために、世界を飛び回っている。

 

岡田 央( おかだ ひろし)

1967年8月11日京都生まれ。小学生でモトクロス(BMX)をはじめ、レースに出場。スポンサーが付くほどの成績を収めるも骨折により高校3年生でレーサーを辞める。京都産業大学経営学部卒業後、企画運営会社を設立。京都にハワイアンカフェを開店し、ウクレレをはじめる。2005年に初めて出場したマウイ島での「ファルセットコンテスト」で日本人初のハワイ語賞と優勝の同時受賞。2006年ハワイでCDをリリース。2007 年ハワイのグラミー賞とも言われる『Na Hoku Hanohano Awards』で、日本人初のファイナリストに。現在日本全国16 か所でウクレレと歌を指導。ハワイ、アメリカ本土、アジア各国 ではウクレレのワークショップなどを行い、音楽を通してハワイの魅力を伝える活動をしている。

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二度助かった命に感謝してハワイが与えてくれたものを世界中の人に伝えたい

レーサー時代の栄光と怪我

僕は3人兄弟の末っ子として京都で育ちました。ある日、兄から自転車をもらい、嬉しくて楽しくてすぐに自転車小僧になりました。そのうち、BMX(バイシクル・モトクロス)という競技用の 自転車に乗るようになって、小学校5年生から高校を卒業するまでレースに出ていたんですよ。

はじめは予選にも通らなくて、いつも最下位。でも、とにかく自転車が大好きだったので、毎日乗っているうちに、中学生の頃には優勝できるようになっ て、高校時代はスポンサーが何社か付いたんです。BMXで日本でスポンサーが付いたのは僕が最初だったようです。

高校3年生の時、BMX世界選手権が日本で初めて開かれました。もちろん僕も参加しましたよ。レース中盤までは2位か3位で好調だったのですが、周りの選手の転倒に巻き込まれて、頭、両 手、右足を負傷。結果は7位でした。2日間行われたレースの中で、3回も病院に行ってしまいました。

その後、BMXのテレビに出演する話があって、この時も撮影中にハプニングがあり足を完全に骨折してしまったんです。それでレーサーの道を諦めました。たくさんのレースに出場しました が、どんなに転んでも一度も棄権したことはありません。スポンサーが付いてましたからね。いつもプレッシャーがありましたが、スポンサーに喜んでほしかったから頑張れたのだと思います。

BMXはアメリカ発祥のスポーツなので「いつかアメリカに行ってみたい」 といつも思っていました。だから怪我をしてレーサーを辞めた18歳の春、「アメリカに行こう」と決意して、最初に訪れたのがハワイでした。

 

落胆を魅力に変えた1杯のラーメン

初めてのハワイは、まだ骨折した足が完治していない状態だったので松葉杖を使って兄と一緒に行きました。ここでまたハプニングが起こりました。市内観光中に兄の荷物が盗まれてしまったんです。お財布もパスポートもなくなって兄も僕もがっくりと落ち込みました。そんな時にハワイの旅行会社の女性が僕たちを元気づけるためにラーメンをご馳走してくれたんです。良い人がいるんだなぁと感激しました。おかげですっかりハワイの印象がよくなりました。

あれから30年近くになりますが、その方にお礼が言いたくて探しています。名前も分かりませんが、もしこの記事を読んでいらっしゃったらぜひご連絡ください!

人の温かさ、美しい自然、ハワイに魅了されてしまった僕は、大学時代はかなり海外旅行をしましたが、最終地点は決まってハワイ。来るたびにハワイが好きになって、どこに行っても必ずハワ イに寄ってから帰国していました。

 

火事で何もかもを失い、 ハワイアンカフェひと筋に

大学卒業後は企画会社を作ってラジオ局などのCMやキャンペーンの企画運営をしていました。何度もハワイを訪れていたので、僕の企画がだんだんハワイっぽくなっていったんです。日本にいながらハワイを感じたいなと思って、とうとう京都にハワイアンカフェを開店しました。ハワイアンミュージックを流して、ハワイのコーヒーやパンケーキを出していました。当時は「ロコモコってなに?」という時代でしたから、めずらしいこともあったんでしょう ね。人気店になり2店舗目を出すまでになりました。

毎日目まぐるしい忙しさでしたが、 ある日、1日だけお休みが取れたんです。やっとゆっくり寝られる! と思って喜んだのもつかの間。「忙しくて人手が足りないから手伝ってほしい」と店から連絡が入り、仕方なく店に行きま した。そのとき信じられないことが起きたんです。家が火事だという連絡が!

あわてて家に向かいました。タクシーの窓から見えたのは、寝室の窓から炎と煙が出ている我が家でした。もしあの時店に行かずに家で寝ていたら …。僕は呆然としました。

結局、この火事ですべて焼けてしまいました。企画をしていくための道具も洋服も。僕にはハワイアンカフェしか残っていませんでした。

 

ウクレレ「コアロハ」との運命的な出会い

ハワイアンカフェではいつもハワイの音楽を流していたので、僕もウクレレが弾けたらいいなぁと思うようになりました。そして次にハワイを訪れた時に覗いた楽器屋さんで、あるウクレレに一目惚れ! でも値段が高くて、その場では買う決断ができませんでした。その後、アラモアナセンターでマカハサンズの無料ライブがあると聞いて見に行ったんです。たまたま隣に座った女性と会話をする中で「ウクレレが 欲しいんだ」と何気なく言ったら、「友達がウクレレを作っているから工場へ連れて行ってあげる」と言うのです。

早速その工場へ行き、ドアを開けようとしたら、なんと僕が一目惚れした ウクレレのマークが! それが「コアロハ」でした。運命的な出会いを感じまし た。そこでウクレレを作ってもらえるこ とになって、しかも、ウクレレの弾き方も教えてもらったんです。それが初めてのウクレレ体験でした。26歳か27歳の時です。

 

とうとうハワイへ住むことに

ホテルに戻った僕は興奮を抑えきれず、ABCストアでおもちゃのウクレレを買って、教えてもらったフレーズを夜中まで何度も練習しました。指が痛くなっても冷やしながら夢中で弾いてましたね。

日本に戻ってからも、嬉しくてCDに合わせて毎日練習していました。僕の店に来るお客さんはハワイ好きの人が多くて、フラやウクレレをやっている人もいました。そのうちに、こういう店を やっているならお客さんより知識を持っているべきだと思うようになって、 ハワイに住むことを決めたんです。そして店を人に任せてハワイへ。ウクレレを作ってくれた「コアロハ」のお父さ んとお母さんのところに居候をさせていただいて、約1年間、朝は工場を手伝い、午後はウクレレやフラを習いまし た。本当に貴重な体験をさせてもらいました。その後はハワイと日本を往復しながら、ハワイアンバンドを組んで、 日本でライブをしたり、ウクレレと歌のレッスンをしたりしていました。

 

ハラの木の下で起きた奇跡

2005年のマウイ島でのファルセットコンテストで優勝した瞬間

 

37歳の時、ハワイの有名なアーティストに「ファルセットのコンテストに出てみたら?」と突然言われたんです。ハワイではメジャーなコンテストだったので見に行ったことはありましたが、 自分が出場するなんて考えてもいませんでした。でも、もし出場できれば僕の歌やウクレレの実力を正しく評価してもらえるので、そのアドバイスを元に今後練習をすれば上達していくのではないかと思って応募することにしました。そうしたら運良く予選を通過できたんです。

僕の師匠のひとりにブラ・カイリヴァイ(以下ブラ)という人がいて、彼からハワイの文化や音楽のことをたくさん教えてもらいました。コンテスト出場を決めた時には彼にお願いをして、 ステージで一緒に演奏してもらうことにしました。ちょうどコンテスト前に彼が日本に来たので、彼の前で一度歌ったんです。そのときブラがなんと言ったかというと「コンテストの出場、やめておく?」でした。実は僕は人前で歌うのが苦手だったんです。

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