菊の季節

 11/19/2018

 

『風流五節句』重陽 鳥文斎栄之 江戸時代後期

 

 

 

 

松尾芭蕉が詠んだ菊の句

草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒

この俳句は、重陽の節句にまつわる俳句として江戸時代の俳人・松尾芭蕉(1644−1694)が詠んだ一句です。江戸時代中期、元禄8年(1695年)に成立した俳書『笈日記』には「(元禄4年)九月九日、乙州が一樽をたずさへ来たりけるに」という記述があり、また江戸中期の俳諧書『蕉翁句集』の付記には「此の句は木曽塚旧草に一樽を人の送られし九月九日の吟なり」という一文があります。このことから、芭蕉が現在の滋賀県大津市にある義仲寺に滞在していた際に詠んだ句であることがうかがえます。

 

この句には、次のような意味が含まれています。「平安の昔から、重陽の節句には菊花酒という酒を飲み、長寿を祝う習慣があった。今日は重陽の節句だが、菊花酒などは隠遁の自分には関係がないと思っていたところ、日暮れになり、思いがけなく一樽の酒が届いた。嬉しくなくはないが、日が暮れる頃に届いたことには一抹の淋しさがある」  「草の戸」は、義仲寺境内にある無名庵のことで、日暮れに酒を届けてくれたのは乙州という人でした。中国の故事の1つに、重陽の日、陶淵明(とうえんめい)が野原で一人菊の花を摘んでいると、太守から酒が一樽が届けられたというエピソードがあります。この句では、芭蕉の経験と陶淵明の故事が重ね合わせられています。

 

山中や 菊はたおらぬ 湯の匂

この俳句は、芭蕉が元禄2年(1703年)の7月末から数日間、山中温泉に滞在した際に詠んだ一句で、次のような意味があります。  「中国の周代に、菊の露を飲んだおかげで少年のまま700歳まで生きたという菊慈童の伝説がある。しかしここ山中では、菊に頼らずとも、湯の香りを吸うだけで長生きできそうだ」  この句は、滞在した宿の主人・桃妖へ挨拶吟として贈られました。

 

栃木県の佐野厄除け大師境内にある菊慈童の像。 (GNU Free Documentation License)

 

 

 

 

食用としての菊

重陽の節句の祝い膳には、菊酒と共に、栗ご飯、秋茄子、食用菊などの秋の味覚が使われます。食用菊は、食用花として栽培されるエディブルフラワー(edible flower)の1つ。お吸い物、おひたし、酢の物、和え物、天ぷらなどとして食べられています。蒸した花びらの塊を薄く四角形に伸ばして乾燥させた、菊海苔という加工品もあります。花びらを食用とするのは大輪種、刺身に添えたりして花全体を食用とするのは小輪種と呼ばれます。刺身のツマとしての菊は、見た目の美しさだけでなく、解毒作用を利用した食中毒の予防という役割もあります。

 

 

刺身に添えられた食用菊。花弁を醤油に散らし、彩りや香りを楽しみながら食べることもある。

歴史

古代中国では、菊は延命長寿の花とされ、菊花酒や菊茶として飲まれたり、漢方薬として使われたりしていました。苦味を少なくし、花びらを大きく改良された品種が食用菊で、奈良時代頃、「延命楽」として中国から日本に伝わりました。延命薬は、現代でも「もってのほか」「カキノモト」という名前で栽培されています。また、平安時代中期の延長5年(927年)に編纂された格式「延喜式」の典薬寮でも、薬として黄色い菊の花が使われています。庶民の間でも食されるようになったのは江戸時代。元禄8年(1695年)に記された本草書『本朝食鑑』には「甘菊」(食用菊の別名)を、お吸い物に入れたり、醤油につけるという食べ方が記されています。

 

栄養素や効能

食用菊には、ビタミンC、β-カロテン、葉酸など、抗酸化作用の高い栄養素が多く含まれています。紫色の紫菊花には抗糖化作用もあるといわれており、抗老化作用などへの効果も期待されています。また、食用菊を食べると、体内の3つのアミノ酸(グルタミン酸、システイン、グリシン)から成る「グルタチオン」の産生が高まり、解毒作用、抗酸化作用などがあるとされる他、日本大学の薬学部・理学部、山形県衛生研究所の共同研究では、がんの抑制やコレステロールと中性脂肪の低下に効果があることが確認されています。

 

品種

【阿房宮(あぼうきゅう)】青森県八戸市特産の阿房宮は、黄色で八重咲きの小輪種です。江戸時代、豪商の七崎屋半兵衛が京都から八戸に持ち込んだもので、よく刺身のつまや料理の飾りなどに使われています。 【延命楽】明るい赤紫色の八重咲きの菊で、特に酢の物によく使われます。新潟では「カキノモト」 山形では「もってのほか」と呼ばれていますが、「もってのほか」という名前の由来は「天皇の御紋である菊を食べるとはもってのほかだから」「もってのほか(思った以上に)おいしいから」なのだとか。

 

菊の紋

菊の花はその姿や香りが気高いことから、日本では古くから梅、竹、蘭と共に「四君子」のひとつとして愛賞されてきました。花は観賞用としてだけでなく、薬餌効果もあるため「延命草」と呼ばれ、花弁が放射状なことから太陽にかたどって「日精」とも呼ばれています。延命に効果があり、百草の王と見なされていたため、藤原時代になって菊を文様として使用することが盛んになりました。「紫式部日記」には五重の唐衣が、「栄華物語」には菊のうちかけ、菊の二重紋の名が使われています。菊の紋をつけたことがはっきり記されているのは「蜻蛉日記」以後です。

 

当時はまだ、菊の花紋が皇室の紋章とは定まっていませんでした。平安末期、後鳥羽天皇が菊花を深く愛し、御服興車はもちろん、刀剣懐紙などにいたるまで菊の文様を用いたため、後深草上皇、亀山上皇、宇多法皇もあいついで用い、菊花紋が皇室専用となりきっかけとなりました。「ハバキ(刀剣の鍔の上下にはめる鞘口形の金具)の下に菊花紋を刻んだ後鳥羽上皇の佩刀(はいとう)が現存しています。平安時代から文様としてとして愛用され、藤原時代から鎌倉時代にかけて流行し、衣服や器材に菊の模様がほどこされました。  

 

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