端午の節句と鯉のぼり-意味や由来を知って楽しく過ごそう

 04/28/2018 : 367 Views

5月5日はこどもの日、そして男の子の成長を祝う「端午の節句」でもあります。日系人の多いハワイでも、毎年ケイキパーティなどが催されるほか、バックヤードに本格的な鯉のぼりを揚げる家もあるようです。今回のエキストラ特集では、端午の節句、鯉のぼり、五月人形、柏餅など、こどもの日に関するものの由来や意味などをご紹介します。

 

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦節句とは?

節句は、中国の陰陽五行説に由来する日本の暦の年中行事です。季節の節目の日、神様に旬の果物や草花を備え、それを家族で食べて邪気を払う行事で、奈良時代頃から行われていました。現代の日本では、主に右記の5つの節句が祝われています。

 

1月7日:人日(じんじつ)、七草の節句

3月3日:上巳(じょうし)、桃の節句

5月5日:端午(たんご)、菖蒲の節句

7月7日:七夕(しちせき)、笹の節句

9月9日:重陽(ちょうよう)、菊の節句

 

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦端午の節句

「端」は物の端、「始まり」という意味で、「端午」は元々、各月の始めの午(うま)の日を指していました。

「午」は「五」に通じることから毎月5日が端午となり、中でも5の数字が重なる5月5日を「端午の節句」として、行事を行うようになりました。

 

古代中国が起源

端午の節句の起源は、古代中国の邪気除けの行事と考えられています。古代中国では、5月は雨季にあたり、疫病が流行し易かったために、物忌み月、悪月とされていました。その邪気を祓うため、5月最初の午の日に、薬草を摘んだり、菖蒲酒を飲んだり、ヨモギを編んで作った人形を飾ったりする行事がありました。現在の端午の節句に菖蒲やヨモギが使われるのは、薬草の中でも特に独特の香りがある菖蒲やヨモギには強い厄除けの力があると信じられていたためです。

 

端午節会(たんごのせちえ)

【薬狩り】

 宮中では、飛鳥時代頃から「節会(せちえ)」が催されていました。5月5日の端午節会は、五日節会(いつかのせちえ)とも言い、中国から伝わった風習を取り入れ、男性は鹿の若角を採り、女性は薬草を摘む「薬狩り」を行う風習がありました。  薬狩りの記録がある最古の文献『日本書紀』には、611年(推古19年)5月の条に「夏五月の五日に、菟田野に薬猟す。鶏明時を取りて、藤原池の上に集ふ。会明を以て乃ち往く」と記されています。菟田野(うだのの)は、現在の奈良県宇陀市にある阿騎野周辺のことと考えられています。

 

【観騎射式の日】

平安時代初期に編纂された『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、端午の日に天皇が馬が走る様子を鑑賞することもあったという記述があります。これが後に、騎射の儀式に変わりました。平安時代初期の勅撰儀式『内裏式』では、5月5日が「観騎射式」の日とされています。

 

【吹き流しの起源は薬玉の五色糸】  

端午節会の日、内務省と宮内省は、内薬司と典薬寮を率い、邪気を祓い長寿をもたらすとされた菖蒲草と、沈香や丁子などの香料を袋に入れ、五色の糸で飾った薬玉(くすだま)を天皇に献上しました。献上された薬玉は、儀式に参加した皇太子や貴族たちに下賜されました。内裏の軒先には菖蒲やヨモギが吊り下げられ、薬玉は柱にかけられました。薬玉を飾った五色の糸は、鯉のぼりの一番上に掲げる吹き流しの起源になりました。宇多天皇(在位887〜897)の時代からは、ちまきが食べられるようになりました。

 

元々は女性の節句だった

旧暦の5月は、日本では田植えの時期にあたります。昔は、早乙女と呼ばれる若い女性が田植えをしていました。田植え前の端午の日、早乙女が飲食などを慎んで不浄を避け、心身を清らかに保つという「五月忌み」の習慣がありました。奈良時代に中国式の端午の節句が伝わると、菖蒲や葵などの薬草を軒先に掲げたり、菖蒲で屋根を葺いて家の中を清めると共に、早乙女は家にこもり、田の神の奉仕者として五穀豊穣を祈願し物忌み精進の生活に入るという風習が生まれました。関東以西では、現在でも5月4日の夜から5日にかけてを「女の家」「女の屋根」と呼び、女性が家にこもる習慣が残る地域があります。

 

女性の節句から男の子の節句へ

武家が中心の社会となった鎌倉時代、端午の節句に使われる菖蒲は、武事を重んじるという意味の「尚武」や、「勝負」という言葉に掛けられるようになりました。この頃から、武士の家では、端午の節句が男の子のための行事として盛んに祝われるようになりました。時期を同じくして兜やのぼりが飾られ始めたと言われています。江戸時代に入ると、男の子の健やかな成長を願う行事として、庶民にも浸透していきました。

 

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦鯉のぼり

男の子の出世と健康を願い、家の庭に飾られる鯉のぼりは、紙、布、不織布などに鯉を描いたのぼりのことです。

皐幟(さつきのぼり)、鯉の吹き流しとも呼ばれます。

 

起源は武士の旗指物

鎌倉時代以降、端午の節句が盛んに祝われた武士の家庭では、その日、虫干しを兼ね、奥座敷にその家に伝わる鎧兜を、玄関には戦時に鎧に刺し目印にしたのぼり旗指物(はたさしもの)を飾る習慣がありました。この鎧兜が五月人形の起源に、旗指物が鯉のぼりの起源になりました。

 

最初は五色の吹き流しのみだった

江戸時代、経済力がありながらも社会的には身分が低かった商人の家庭では、身分の高かった武士に対抗し、端午の節句に豪華な武具の模造品や、旗指物の代わりとして五色の吹流しを飾るようになりました。

 

その後、鯉の幟が登場

その後、一部の家庭で「龍門」(※)の故事にちなみ、鯉の絵が描かれた吹き流しを飾るようになりました。これが現代の鯉のぼりに発展するのですが、当時の鯉のぼりは黒い鯉の真鯉(まごい)のみでした。当時、鯉のぼりは江戸を中心とした関東地方の風習で、関西地方には浸透していなかったようです。『東都歳時記』には「出世の魚といへる諺により」鯉を幟(のぼり)に飾り付けるのは「東都の風俗なりといへり」と記されています。明治時代頃から全国に広まり、真鯉と緋鯉(ひごい)が対で揚げられるようになりました。昭和時代からは、家族を表すものとして子鯉も加わりました。

 

真鯉のみの鯉のぼり。歌川広重『名所江戸百景』(1858年)より

江戸時代の節句の様子。左から、真鯉のこいのぼり、七宝と丁子の紋が描かれた幟、病除けと学業成就の神、鍾馗(しょうき)を描いた旗、赤い吹流し。『日本の礼儀と習慣のスケッチ』(1867年)より

 

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