江戸時代の文化を鮮やかに伝える “浮世絵の 世界”

 07/14/2018 : 210 Views

 

後 期

1807〜1858年…庶民の旅行ブームで多数の名所絵が描かれる

主な出来事:異国船打払令が出される(1825)、お蔭参りに500万人が参加(1830)、ペリー来航(1853)

 

この時期は、美人画、役者絵、武者絵などがさらに発展した一方で、庶民の観光旅行や寺社への参拝が流行したことから、各地の風景が描かれた「名所絵」も隆盛を極めました。

 

後期の絵師

【葛飾北斎(1760〜1849)―西洋画家にも影響を与えた絵師】  

現在の東京都墨田区で、貧しい百姓の子として生まれたと言われています。貸本屋の丁稚や木版彫刻師の弟子を経て、貸本の挿絵を描き始めました。生涯に3万点以上の作品を発表。特に、旅行ブームに伴って手がけた代表作「富嶽三十六景」は、浮世絵の風景画に新たな面を切り開きました。また、挿絵を芸術として見出し、『北斎漫画』を始めとした絵本も多数版行。北斎の卓越した筆の形態描写は、ヨーロッパの印象派にも影響を与えました。

 

「北斎漫画」より  葛飾北斎

「神奈川沖浪裏  『富嶽三十六景』より」 葛飾北斎(1823年頃)

「甲州三嶌越『富嶽三十六景』より」 葛飾北斎(1823年頃)

 

【歌川広重(1797〜1858)―「ベロ藍」を取り入れた数々の名作】

 広重の作品に多用されている美しい藍色は、日本古来の藍色ではなく、当時、ヨーロッパから輸入されていた「ベロ藍」という紺青の顔料によるもの。この顔料は、木版画に使うと、油彩よりも鮮やかな色になることから、ラピスラズリのフェルメール・ブルーになぞらえ、ヒロシゲ・ブルーと呼ばれています。ヒロシゲ・ブルーは、19世紀後半、ヨーロッパの印象派やアール・ヌーボーの画家たちに影響を与え、当時「ジャポニスム」が流行した要因のひとつとされています。

 

左は 歌川広重『名所江戸百景』の1つ「大はしあたけの夕立」(1856年頃) 右はオランダの画家、フィンセント・ファン・ゴッホが模写したもの

 

【歌川国芳(1798〜1861)―斬新な画題を生み出した反骨精神の絵師】

江戸日本橋の染物屋に生まれ、幼少期から絵を描いていました。12歳で描いた「鍾馗提剣図」が、役者絵で一世を風靡した初代歌川豊国(1769〜1825)の目に留まり、15歳で彼の弟子になりました。斬新な画想と高いデッサン力で、それまでの浮世絵の枠を超えた作品を多く残しました。

「源頼光公館土蜘作妖怪図より」歌川国芳(19世紀)

「相馬の古内裏(そうまのふるだいり)」歌川国芳(19世紀)

 

 

終 期

1859〜1912年(明治45年)頃…新聞・写真の技術が発展、浮世絵が衰退

主な出来事:大政奉還(1867)、廃藩置県(1871)、大日本国憲法発布(1889)

 

幕末から明治にかけ、西洋建築や鉄道を描いた開化絵、横浜絵などは、庶民に明治維新後の新しい時代の実情を紹介する媒体として役立ちました。これらは、浮世絵に「洋赤」という新しく輸入された安い染料とヒロシゲ・ブルーが一緒に使われるなど、浮世絵と他のジャンルの絵が混合したものでした。やがて新聞や写真などの技術が発展し、浮世絵は衰退して行きました。浮世絵師は挿絵や日本画など、他のジャンルの絵描きにならざるを得ませんでしたが、これらのジャンルで浮世絵の手法が受け継がれていったとも言えます。  1907年(明治40年)の朝日新聞に掲載された記事「錦絵問屋の昨今」には、次のような一文があります。  「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」  大正から昭和にかけて、伊東深水らが浮世絵の復興を目指す新版画を版行し、木版多色摺りの技法を使った作品を多く描きました。また、山本鼎など、自分で絵を描き、その後の彫り、摺りも行う創作版画家も現れました。

 

終期の絵師 【月岡芳年(1839〜1892)―最後の浮世絵師】  

写実的で、劇画のようなタッチの美人画、歴史画、風俗画などを多く描き「最後の浮世絵師」と呼ばれていました。弟子には浮世絵以外の絵も学ばせ、彼らは挿絵画家、日本画家などとして大成。こうして、浮世絵の手法や伝統が他のジャンルへと受け継がれていきました。

 

「源氏夕顔巻」 月岡芳年(1886年) 夕顔が六条御息所の生霊に取り殺された屋敷を訪れた僧の前に現れた夕顔の霊を描いたもの

「足柄山月」 月岡芳年(19世紀後半) 笙を吹く源義光を描いたもの

【竹久夢二(1884〜1934)―グラフィック・デザイナーの草分け】  

大正ロマンを代表する画家で、大正の浮世絵師とも呼ばれていました。「夢二式美人」と呼ばれた美人画を描く一方で、雑誌の挿絵、広告、小間物、浴衣のデザインなども手がけました。現代のグラフィック・デザイナーの草分けのひとりと言われています。

 

「黒船屋」 竹久夢二 (20世紀初頭)

 

【竹久夢二(1884〜1934)―グラフィック・デザイナーの草分け】  

大正ロマンを代表する画家で、大正の浮世絵師とも呼ばれていました。「夢二式美人」と呼ばれた美人画を描く一方で、雑誌の挿絵、広告、小間物、浴衣のデザインなども手がけました。現代のグラフィック・デザイナーの草分けのひとりと言われています。

 

【伊東深水(1898〜1972)―歌川派浮世絵の技術を継いだ画家】  

東京の深川に生まれ、小学校を3年で中退。看板屋の奉公を経て印刷会社の活字工になりました。10代前半から日本画を習い始め、14歳で画壇にデビュー。歌川派浮世絵の正当な浮世絵技術を継ぎ、柔らかいタッチの美人画を多く描きました。ちなみに、今年4月に他界した女優の朝丘雪路さんの実父でした。

伊東深水

 

 

豆知識

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日本の木版技術

製作年代が分かっている世界最古の木版印刷物は、764年(奈良時代)、称徳天皇の命令によって作られた「百万塔陀羅尼文」と言われています。延命や災難除けのために書かれた4つの経典の文字を木版で刷ったもので、仏教を広めるために作られました。高さ14cmの塔に納められた小さなもので、現在は法隆寺に保存されています。木版で絵が刷られたのは江戸時代初期。京都の書家、角倉素庵(すみのくらそあん)が嵯峨本に挿絵を入れたのが最初でした。その後、冊子に浮世絵師、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の挿絵が刷られ、そこから、観賞用の絵の印刷、木版画へと発展していきました。

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浮世絵師の仕事

江戸時代の浮世絵師たちは、観賞用の絵だけでなく、版本の挿絵や表紙、引き札(広告のチラシ)、鏝絵(こてえ・漆喰のレリーフ)、泥絵(不透明な色調で描かれたもの)、ガラス絵、凧絵、ねぶた絵の制作なども行いました。

 

「江戸名所はんじもの」 歌川重宣(19世紀) 「判じ絵」と呼ばれる謎解き絵。傘に「あか」と書いてあるので「赤坂」、絵の具屋の看板の上に鵜がいるので「上野」、「あ」が「さ」というオナラをして臭いので「浅草」など

 

(日刊サン 2018.07.14)

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