日本の夏の風物詩 古典怪談と 幽霊画

 07/28/2018 : 122 Views

「怖い話を聞くと背筋が寒くなる」ということで、日本では夏の風物詩となっている怪談話。

「一枚…二枚…」と皿を数える声が響く『皿屋敷』や、『四谷怪談』のお岩さんなどは、ほとんどの方がご存知なのではないでしょうか。しかし、どんなお話だったかうろ覚えの方も多いのでは?そこで、今回のエキストラ特集では、一歩突っ込んだ怪談を知って涼んでいただくべく、平安時代から明治時代までの古典怪談を中心に、原典やあらすじ、幽霊画などをご紹介したいと思います。

 

∏∏∏∏∏∏今昔物語集 巻第27・本朝付霊鬼 平安時代末期∏∏∏∏∏∏

 

作者不詳の説話集『今昔物語集』は、天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の3部で構成されています。3部とも、冒頭で「因果応報譚」などの仏教説話を紹介し、その後に物語が続くという形になっています。本朝の部27巻は、幽霊や鬼、妖怪などが出てくる「霊鬼」という怪異譚集です。ここでは、その中の一話を読んでみましょう。

 

∏∏∏∏∏∏冷泉院の東洞院の僧都殿の霊の語 第四∏∏∏∏∏∏

 

昔、冷泉院の南の東洞院の東の角に、気味の悪い屋敷があった。誰も住んでいない屋敷は「僧都殿」と呼ばれていた。僧都殿の向かいの冷泉院の北には、左大弁の宰相・源扶義という男の屋敷があった。左大弁の屋敷から僧都殿を見ると、戌亥の隅(北西の角のことで、鬼が逃げ込む方角と言われていた)に、高い榎(えのき)の木が見えた。そして毎夕、僧都殿の寝殿の前から真紅の単衣が現れ、榎の木の方へ飛び、梢を登るのだった。怖ろしい光景だったので周辺には誰も近寄らなかったが、ある日、左大弁の屋敷で宿直をしていた屈強な男が、真紅の単衣が飛ぶのを見て「あの単衣を射落してみせよう」と言った。周囲の人々は「できるわけがないだろう」などと男をけしかけ、煽った。男は意地になり「見ていろ、必ず射落としてやる」と言った。  

 

次の日の夕方、男は僧都殿へ行き、南側の簀の子に上がって例の単衣が飛ぶのを待った。すると、東にある竹が少し生えた場所から、真紅の単衣が飛んだ。男は矢を弓につがえ、強く引いて射かけると、矢は単衣の中心を貫いた。しかし、単衣は矢を突き立てたままで、いつものように榎の梢を登っていった。不思議に思って矢が当たった辺りに行くと、その地面には大量の血が広がっていた。  讃岐守の屋敷に帰った男は、男をけしかけて煽った人々にこの出来事を語った。それを聞いた人々は、とても怖ろしいと思った。男はその夜、就寝中に死んでしまった。男をけしかけた人々や、後で話を聞いた人々は、「なんとつまらないことで死んだものだろう」と男をそしった。この話は、人間にとって命は何よりも大事だが、この男のようにつまらないことに意地を張って死んでしまうこともある、という教訓として語り伝えられている。

 

 

『狂歌百物語』着物の妖怪 「小袖手」竜閑斎(1853年)

 

∏∏∏∏∏∏雨月物語  江戸時代後期∏∏∏∏∏∏

 

日本や中国の古典を参考にした9編の怪異小説が収められた5巻からなる読み本で、作者は上田秋成(1734〜1809)。ここでは、中国の古典『古今小説』をもとにした一編「菊花の約(ちぎり)」をご紹介しましょう。

 

菊花の約

 

戦国時代、播磨国加古(兵庫県加古川市)に、左門という儒学者がいた。母と二人暮らしで、清貧を好む男だった。ある日、友人の家に行くと、友人が助けた行きずりの武士が病で伏せっていた。武士は赤穴宗右衛門という軍学者。彼は、故郷の出雲国の主・塩冶掃部介が尼子経久に討たれたと聞き、近江国から帰郷するところだった。やがて、宗右衛門は起き上がれるようになり、見舞いに訪ねてくる左門と学問について語り合った。互いに話が合い、友人同士となり、さらに義兄弟の契を結んだ。年上の宗右衛門は兄、左門は弟になった。左門は宗右衛門を家に連れ帰って母に紹介し、三人は親しい時を過ごした。  初夏になり、すっかり回復した宗右衛門は、塩冶掃部介の様子を見に出雲へ帰郷することにした。左門には、九月九日、菊の節句に戻って来ると約束した。時は過ぎて九月九日となった。その日、左門は朝から宗右衛門を迎えるための料理や掃除をし、母が落ち着きなさいと言うのも聞かず、そわそわしながら家の外に立って待っていた。何人もの旅人が家のそばの道を通り過ぎたが、その中に宗右衛門の姿ははなかった。とうとう夜中になり、諦めて家に入ろうとした時、宗右衛門がやって来た。左門は喜んで迎えたが、宗右衛門は、出された酒や料理を嫌がったり、雰囲気が影のようだったりと、どうも様子がおかしい。訳を尋ねた左門に、宗右衛門は「自分は実は幽霊である」と告白した。  宗右衛門は続けてこう言った。「出雲に帰ると、塩冶掃部介を討った尼子経久が、自分の従兄弟の赤穴丹治を使って自分を監禁し、外に出られないまま9月9日になってしまった。『人一日に千里をゆくことあたはず。魂よく一日に千里をもゆく』という言葉を思い出し、約束を守るために自害した。そして幽霊になってここまで来たのだ」語り終わると、左門に別れを言い、どこかへ消え去った。  次の日、左門は出雲へ旅立ち、宗右衛門の従兄弟の丹治に会った。左門は、魏の公叔痤の故事を例に挙げ、それに比べて丹治には信義がないと責め、丹治を斬り殺した。その後、左門は行方をくらませたが、丹治の主君の尼子経久は、宗右衛門と左門の信義に感心し、跡を追わないことにした。

 

皿屋敷 江戸時代中期〜

 

皿屋敷の話には、播州姫路の皿屋敷、出雲国松江の皿屋敷、土佐国幡多郡の皿屋敷など、いろいろなパターンがあります。その中で、最も有名なのは『番町皿屋敷』。これは、1756年に講談師の馬場文耕が描いたと言われる『皿屋敷弁疑録』が元になっています。

 

番町皿屋敷

 

昔、牛込御門内五番町にある吉田屋敷の跡地一角に、火付盗賊改・青山播磨守主膳の家があった。その家には菊という名前の召使いが奉公していた。  承応二年(1653年)の正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち、一枚を割ってしまった。怒った主膳の奥方は菊を責めたが、主膳は「それでは手ぬるい」と、皿1枚の代わりとして菊の中指を切り落とした。その上「手打ちにする」といって監禁してしまった。菊は縄を付けたまま監禁されていた部屋を抜け出し、裏の古井戸に身を投げた。その後、古井戸の底から「一枚…、二枚…」と皿を数える女の声が、毎晩のように屋敷中に響き渡るようになった。  やがて奥方は子を産んだが、その子には右手の中指がなかった。そして、この出来事は公儀の知るところとなり、主膳は屋敷を含めた所領を没収されてしまった。しかし、その後もまだ屋敷内で皿を数える声が続いているというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経をするよう依頼した。  ある夜、上人が読経していると、皿を数える声が「八枚…九枚…」と聞こえてきた。すかさず上人は、「十」と付け加えた。菊の霊は「あらうれしや」と言って消えた。

 

『新形三十六怪撰』より 「皿やしき於菊乃霊」月岡芳年(1890年)

『百物語』より「さらやしき」 葛飾北斎(1831〜1832年)

 

四谷怪談 江戸時代中期〜

四谷怪談は、元禄時代(1688〜1704年)に起きたとされる出来事が収められた『四谷雑談集』(1727年)をもとに創作されたと言われています。舞台は、江戸の雑司ヶ谷四谷町(豊島区雑司が谷)。「貞女の岩が、夫の伊右衛門に殺され、幽霊になって復讐する」という物語をベースにいろいろなパターンがあり、歌舞伎や落語の題材にもなっています。ここでは『四谷雑談集』と、最も有名な鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を比べてみましょう。

 

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