節分 2017

 01/27/2017 : 1332 Views

鬼、豆、恵方巻き、柊鰯…

節分の由来いろいろ

もうすぐ節分ですね。皆さんご存知の通り、節分は「福は内、鬼は外」と言いながら鬼役の人に向かって豆をまき、まき終わったら拾って自分の歳の数だけ食べるという厄払いの行事です。しかし、なぜ鬼に向かって豆を投げるのか、なぜ炒った大豆を使うのか、いつから行事として定着したのか・・・などなど、謎の多い行事でもあります。そこで今回の特集では、節分の意味や由来、歴史などを紐解いてみたいと思います。

 

節分の起源と豆まき

「節分」と呼ばれる理由

節分は「季節を分ける」という意味で、江戸時代以前は、春夏秋冬の始まりの日の前日「雑節」を指し、立春、立夏、立秋、立冬、それぞれの季節の前日を節分と呼んでいました。明治6年の改暦以前に使われていた旧暦(太陽太陰暦)では、立春は二十四節気の第一節目で、1年の始まりとされていました。旧暦での立春の前日は大晦日にあたり、4つの節分の中でも特に重要な日だったので、江戸時代以降は主に、立春の前日を「節分」と呼ぶようになりました。

 

節分の起源

奈良・平安時代の宮中では、旧暦の大晦日に当たった立春の前日に、その年の厄や邪気を払い、福を呼び込む「追儺(ついな)」という陰陽道の行事が行われていました。この宮中行事が、現在の節分の始まりと言われています。室町時代以降、豆をまいて悪い鬼を追い出す行事に変化し、徐々に一般化していきました。

 

鬼に向かって豆をまく理由

宇多天皇(在位887〜897年)の時代、鞍馬山から鬼が下りて来て京の都を荒らしていました。そこで、僧侶が祈祷をして鬼の穴を封じ、毘沙門天のお告げに従って三石三升(約550リットル)の炒り大豆で鬼の目を打ちつぶした、という逸話が残っています。「魔目(豆)」は「魔滅」に通じるため、節分で豆をまき、無病息災を祈るようになったと言われています。

 

江戸時代の豆まき 葛飾北斎画:北斎漫画より

 

豆が大豆の理由

節分の豆まきに使う豆は、昔は五穀(米、麦、豆、粟、稗)ならどれでもよかったという説が残っています。神道では、五穀には穀物の精霊、穀霊が宿るとされており、大晦日にあたる立春の前日に、五穀をまき、穀霊に悪い霊を払ってもらったのだそうです。五穀の中の豆は大豆を指しますが、五穀の中で1番粒が大きく、投げるとパラパラと音が出ることから、悪霊を払うのに適しているとされました。

 

炒った大豆を使う理由

陰陽五行説の五行「木・火・土・金・水」の中で、鬼と大豆は「金」にあたります。生の大豆をまくと、拾い忘れた大豆から芽が出てしまい、鬼と同じ「金」にあたるものから芽が出て来るということで、縁起が悪いとされていました。そこで「金」の作用を滅すると言われる「火」を大豆に通し、「金」の鬼を封じ込めるという意味で、炒った大豆を使うようになったということです。また、豆まきに炒った大豆を使うと、まいた後拾ってすぐに食べられるため、封じ込めた金を食べて鬼を退治する、といった意味もあります。炒り豆の「炒る」が「射る」に通じることも炒った大豆を使う理由の一つで、火で炒って邪気を払った大豆は「福豆」と呼ばれます。

 

 

年の数だけ豆を食べる理由

節分の豆まきが一般に広まった際、福豆を自分の年の数だけ(または年の数より1つ多く)身体に採り入れ、次の年もより健康で幸せに過ごせるよう願いを込めるようになったことが由来と言われています。

 

恵方巻(えほうまき)とは?

恵方巻とは、節分の日に食べると縁起が良いとされる太巻きのことです。 その年の「恵方」の方角に向かって、太巻き丸ごと一本を無言で食べきるというもので、大阪市を中心に関西地方で盛んな風習です。

 

「恵方巻」と呼ばれるようになったのは、つい最近

「恵方巻」という名前は、1998年(平成10年)にセブン−イレブンが、商品名に「丸かぶり寿司・恵方巻」と名付けたことにより広まったと言われています。それ以前は「丸かぶり寿司」「幸運巻寿司」などと呼ばれていました。

 

年によって方角が変わる「恵方」

恵方は、その年の福を司る陰陽道の神「歳徳神(としとくじん)」のいる方角の事を指します。その方角は、その年の干支(えと)の十干(じっかん)というものによって決まります。十干とは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素からなるものです。「吉方」「明きの方」とも呼ばれ、どんな物事もその方角に向かって行えば吉となると言われています。2017年の恵方は壬(みずのえ)で、方角は北北西です。

 

『安部晴明簠簋内傳圖解』の歳徳神

 

 

起源

恵方巻きの起源は諸説があり、どれが本当の起源かはよくわかっていないのだそうです。主に言われている説は、以下の通りです。

 

安土桃山時代、豊臣秀吉の家臣だった武将・堀尾吉晴が、節分の前日に海苔巻きのような物を食べて戦に出陣し、大勝利を収めました。このエピソードが元になり、恵方巻きの習慣が始まったという説(しかし、海苔巻きに使う板状の海苔が作られたのは江戸時代なので、この説の根拠は乏しいとされています)。

江戸時代末期、大阪・船場の商人たちが、商売繁盛と厄払いのため、立春の前日の節分に「幸運巻寿司」を食べる習慣を始めたという説。

江戸時代末期、大阪・船場の花街で「階段の中段に立って巻ずしを丸かぶりすると願い事が叶う」というおまじないが流行ったことが始まりという説。

江戸時代末期〜明治時代のある年、節分の日に大阪近郊の申村(現在の此花区伝法付近)に住む老若男女の集まりがあり、供された巻寿司を食べる際、皆に切り分ける手間を省くため、一本を丸ごとかじったことが始まりとする説。

 

恵方巻きが一般化したのは、いつ頃?

恵方巻きの習慣が一般化し始めたのは、昭和の始め頃と言われています。1932年(昭和7年)、大阪鮓商組合は「巻寿司と福の神 節分の日に丸かぶり」と題したチラシを配布し「幸運巻寿司」を宣伝しました。これは、比較的商売が暇になる2月に売り上げを伸ばすため、という目的もあったのだそうです。このチラシには、以下のような宣伝文句が書かれています。

 

http://www.osaka-sushi.net/

 

「この流行は古くから花柳界にもて囃されてゐました。それが最近一般的に喧傳して年越には必ず豆を年齢の数だけ喰べるやうに巻寿司が喰べられてゐます。 これは節分の日に限るものでその年の惠方に向いて無言で壱本の巻寿司を丸かぶりすれば其年は幸運に恵まれると云ふ事であります。 宣傳せずとも誰云ふともなしに流行って来た事を考へると矢張り一概に迷信とも軽々しく看過すべきではない。 就ては本年の幸運をば是非平素御愛顧蒙る御得意様にも斯様な事も御承知能ひ永續の御繁榮を切に乞ふ譯であります。 一家揃ふて御試食を願ひ本年の幸運をとり逃さぬやうお勧め申します。 昭和七年節分二月四日 惠方西北(亥子ノ間) 幸運巻寿司 一本金拾五銭 大阪鮓商組合」

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