数々のコンクール入賞歴を持つ独学のピアニスト ハワイでソロリサイタルデビューへ

 11/01/2016 : 4072 Views

5歳の時、幼稚園で初めて聴いたピアノの音色に惹かれて以来、ピアノの虜になった井手諒さん。家にピアノがなく、レッスンを受けられる家庭状況ではなかったため、紙に鍵盤を描き、耳を頼りに独学でピアノを学び続けたピアニストだ。いくつもの壁を乗り越えてきたのは、ピアノが好きという純粋な気持ちと、彼を応援する家族や友人たちがいたから。そんな彼のハワイ・ソロリサイタルデビューが決定した。コンサートの序奏として、ピアニスト井手諒さんの人生をインタビューした。

 

手描きした紙の鍵盤で見よう見まねで弾いていた

 ピアノとの出会いは、僕が生まれ育った鹿児島県の幼稚園でした。教室で先生が弾くピアノの音色を聴いて以来、興味を持つようになったんです。小学校に入学してからはとにかくピアノが弾きたくて仕方なくて、授業の合間に、教室にあるオルガンを習う生徒の列に混ざり込んで、前の子が弾いている曲を見よう見まねで弾いていましたね。

 僕は5人兄弟の次男で、兄弟も多かったですし、父親の事業もうまくいかなかったこともあって、ピアノやオルガンなどは買える状況ではなかったんです。それで、放課後はピアノがある女の子の家に毎日行って弾かせてもらっていました。とにかく楽しくて夢中でした。自分の家に帰ると、ボール紙に鍵盤を描いて、学習机の上に乗せて、音を想像しながらピアノの弾き真似をしていました。

 

楽譜の存在を知り、独学で譜読みできるように

 小学校4年生の時に、合唱部の先生に誘われて伴奏者として入部しました。お正月には、ペダルのない4オクターブだけの小さな鍵盤のキーボードを両親から買ってもらいました。ようやく音の鳴る鍵盤を自宅で弾けるようになったんです。でも電子楽器は電気を使うので1時間以上練習することは禁止されていました。そもそも九州男児の父は、男がピアノを弾くということに対してあまり良く思っていなかったようです。

 この頃、学校で流れていたショパンの『別れの曲』が入った名曲集のテープを、学校の先生にダビングしてもらって、何度も何度も聴いていたんです。音を頼りにキーボードで弾くようになりました。でも高音と低音の鍵盤が足りなくて、ここでまた紙に鍵盤を描いて、足りない音は紙の鍵盤を叩いて弾く振りをしていました。

 この時に初めてショパンのピアノ曲の楽譜があるということを知り、お小遣いを貯めて買いに行ったんです。でもピアノを習ったことがなかったので譜読みもできなくて、テープから流れる音と楽譜を照らし合わせながら、音符やシャープ、フラットなどの記号を覚えていきました。それからは、楽譜をどんどん集めました。ショパン、ベートーベン、モーツァルト、ドビュッシー……とにかく「弾けそう!」と思うものを買っては弾いていました。

 

 

合唱部の演奏会で初めて父に褒められ号泣

 6年生の時に合唱部の定期演奏会で約20曲の伴奏をすべて暗譜して弾いたことがありました。その演奏会に、父が来てくれたんです。僕が手元を見ずに、指揮者とコンタクトを取りながらすべての曲を弾く姿に衝撃を受けたと言って「お前、すごいんだな!」と頭にポンと手を置いて褒めてくれたんです。それが嬉しくて大泣きをしたのを今でも覚えています。この後、今度は5オクターブある、ピアノと同じ大きさの鍵盤のキーボードを買ってくれました。

 中学生の頃は、友達の誘いで初めてピアノコンクールに出ました。本当はそのためにピアノを習えればよかったのですが、月謝がかかってしまうので難しいと思っていたところ、友達のピアノの先生が声をかけてくれて、無料で2回ほどレッスンをしてくれたんです。人生で初めてピアノを習えたことが嬉しくて仕方がなかったです。楽譜をバッグに詰めて出かけて、先生が楽譜にいろいろ書き込んでくれる。今まで自分で書き込んでいたので、すべてが新鮮でワクワクしました。結局、予選を2回通過でき、九州大会まで進むことができました。

 

高校時代は大手事務所と契約 そして精神的に崩壊

 小学校高学年から中学校時代は、合唱にもハマって、ピアノを弾きながら歌っていました。それをテープに録って、さらにコーラスを重ねていくという多重録音をして遊んでいました。その頃には自分で曲を作って、作詞もしていました。

 高校に入学後、東京の大手事務所との契約がトントン拍子で進んで正式に契約しました。デビューに向けてボイストレーニングやギター、キーボードなどのレッスンを受けたりしました。その時に繰り返し言われたことが「他人を蹴落とす強い気持ちを持ちなさい」ということで、そう言われるのが辛かったです。

 それまでは楽しく音楽をしていたのに、売れるための曲を書かなくてはいけない。売れるための歌を歌わなくてはならない。というプレッシャーに耐えられなくなって、高校卒業を目前に、事務所との契約を破棄してしまったんです。

 

 

これからも音楽の道を!身一つで鹿児島から東京へ

 まわりは進学や就職が内定しているのに、自分には何もなくなってしまったという状態で高校を卒業しました。

 卒業式の3日後に父に「契約をしていた東京の事務所に、男のけじめとして顔を見せて謝りに行くぞ」と言われて、父とその事務所へ出向いていきました。僕の担当をしてくださったプロデューサーの顔を見るなり、父は汚い床に頭を付けて土下座をしたんです。それを見た時、とんでもないことをしてしまったと思い、頭の中が真っ白になりました。

 その日の夜に泊まったホテルで、父に「これからも音楽をやっていきたいのか?」と聞かれたんです。具体的なことは何もわからなかったけれど一言「うん」と答えました。父は「お前を見ていて俺なりに感じるものがある。音楽をやっていくなら、鹿児島にいてはダメだ。東京に出ていけ」と言って、翌日に不動産屋へ行って僕が住むための家を決めたんです。

 一度地元に戻って、一週間後に上京しました。持って行けたのは3万円だけでした。

 

音大卒の肩書きを持たないという壁 変わりつつある社会

 東京に出て数年間はライブハウスなどでポップス活動をして生計を立てていました。それで人生初のローンを組んで電子ピアノを買ったんです。初めての88鍵のピアノ! 嬉しくて毎日時間が許す限り家にこもってピアノを弾いていました。

 ピアノ仲間も徐々に増え、その紹介もあってオーディションやコンペティションに出て1位に入賞したりしました。僕は音大のピアノ科を卒業していないので、プロフィールに書くことが何もなかったんです。なので、とにかく自分の“証”を築くために、コンクールに出場したり、音大のピアノ教諭に習い、クラシックピアノを基礎から学びなおしたり、ピアノ・ミュージック・アカデミーに恩師の推薦で入会したりしました。それでも音大卒でなく、独学でピアノを弾いてきたということに、周りからいろいろ言われることも多くて悩んだこともありました。

 でも、ある有名なプロの楽器奏者の方から「教えられなかったからこそ君だけの魅力があるんだ。同じように習ってしまったら君の価値はなくなる」と言われ、何かと声を掛けていただいたり、嬉しいこともありました。

 振り返るのこの10年で随分学歴に対する世間の目が変わってきたように感じます。まだまだクラシックの世界では難しいこともありますが、実力社会に変わってきたのかなと思っています。

 

弾き過ぎで右手負傷 ピアノ活動休止、3年後に復帰

 ピアノソロ、伴奏、作曲や編曲、自宅ではピアノの指導をしたりして音楽活動をしてきたのですが、多忙とピアノの弾き過ぎで、4年前に右手の指が思い通りに動かなくなってしまいました。ばね指というらしいのですが、ピアノを弾いていて人差し指を下ろそうとすると、一度上がってから下りるような状態になり、欲しい時に下りてこないんです。さらに内出血をしたり。整形外科では手術を勧められたのですが、ピアニストとしての生命が絶たれると言われ、自暴自棄になりながらも、手術には踏み切れませんでした。

 ついにピアノ活動を休止する決意を固め、治療を東洋医学に切り替え、針やお灸などあらゆる治療を試みました。

 ピアノは1日休むと3日前まで戻ってしまうので焦りと葛藤の日々でしたが、3年間休みました。そして、状態が良くなり、昨年1月にようやくステージへ復帰しました。

 すっかり素人の指になってしまいましたし、治療を続けながらの復帰でした。それ以降傷口に塩を塗るように活動をしているわけですから、正直に言えば苦しいです。じゃあ止めればいいとも思うのですが、やはり僕はピアノが弾きたい。だから、辛い時もたくさんあるけれど、自分の指の状態と上手に付き合っていくつもりです。

 

 

ハワイでソロリサイタルデビューへ

 ありがたいご縁もあって11月12日にハワイでソロリサイタルデビューをすることになりました。これまで積み上げてきたことがついに形になるんだと感じています。歌をやったこともありますが、言葉で通じ合える歌に対して、ピアノは音だけです。その音であらゆることを発信したいと思っています。例えば田舎の土を踏んだ時の感覚だったり、馬車に乗った感覚だったり、聴いてくださる方が、僕の音で、一瞬でも記憶や何かに思いを巡らせてもらえたら嬉しいです。音を体感して、音を楽しんでいただきたいと思っています。それが “音楽” なんですよね!

 

【井出 諒】1984年、鹿児島県生まれ。5歳の時にピアノに興味を持ち24歳まで独学でピアノを学ぶ。2008年、江戸川区新人オーディション(一般の部)で1位通過し演奏会へ出演。2010年、同オーディション(専門の部)で入賞し演奏会へ出演。ピティナピアノコンペティション全国決勝大会で第1位受賞。2011年、サントリーホールでの第一回東日本大震災チャリティーコンサートに出演。2014年、ピアノ・ミュージック・アカデミー・ジャパンのマスタークラス4修了。現在、ソロの他、伴奏ピアニストとして活動する一方、クラシックにとどまらず幅広いジャンルにて編曲や楽曲を提供。ピアノ教室を友人と共催し、指導にもあたる。これまでに稲田美代子氏、茂垣祥子氏、前田勝則氏、Drマーク・サリバン、アレクサンダー・リュースラー氏に師事。 ピアノ・ミュージック・アカデミー在籍。江戸川演奏家協会会員。


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